最澄が根本中堂にともした「不滅の法灯」を受継ぎ、本堂には灯明が灯されている。山形県の立石寺・岩手県平泉の中尊寺と並び、東北三灯に数えられているそうだ。 |
源義経が京都・鞍馬山(鞍馬寺)で修業をしていた頃、義経に想いを寄せる皆鶴姫が義経のために父・鬼一法眼のもとから中国伝来の兵法書を盗み出した。義経が奥州へ出奔した後、そのことを知った鬼一法眼は皆鶴姫を罰するため舟に乗せて海に流した。その舟が流れついたのが気仙沼市松崎前浜の母体田(もたいた)海岸。夢のお告げでそれを知った義経は、姫の遺骨と観音像を見つけだし、平泉と気仙沼の中間に観音寺を建てて祀ったという。 |
江戸後期の遊歴の文人菅江真澄は天明6年(1786年)7月24日に観音寺を訪れ、主の法印より寺の由来や源義経と皆鶴姫の伝承を聞き取って、この歌を詠んでいる。NHK大河ドラマ『義経』放映を記念して平成17年9月建立。 |
天明6年(1786年)7月8日、菅江真澄は気仙沼に来遊し、8月4日まで滞在した。 |
廿四日 海岸山普門院観音寺といふみてらに入て、日のななめになるまで、あるじの法印にかたり奉るに、慈覚大師、この山ひらき給ひしころ、持給ひし石の独古あり、こは出羽の国の山寺、ひえの山、いまひとつは、この寺ならではあらじ。 又よし経のふる笈、ここにも見へたり。そのゆへをとへば、鬼一方眼の娘、みなつるひめ、義経に心通はし給ふを、父ねたく思ひて、うつほ舟にいれてながしぬ。いかがしけん、此うらにつきたり。浦人とりて、舟うち破りしかば、女の死したるあり。此こと義経きこしめして、いそぎ磯におりて見たまへば、うつはな(ママ)にくり、見ならひ給ひし、みなつる姫と見さだみ給ひて、御涙ながら、なきがらを、かしこにうづみ給ひて、寺を建給ふといふ。そこを、ふなつきといふ、今は田はたけとなれり。寺を大寺といひしが、いまはここにうつしたり。此笈もさるころより、おさめ給ふならんか。昔のことをいひおしへ給ふ。やがて、かへさになりて、 萩すゝき手向の草のそれたにもつゆけき増る秋の山寺 |