大黒屋光太夫は、宝暦元年(1751年)伊勢の国南若松村(現在の鈴鹿市若松東)に生まれ、天明2年(1782年)に遠州灘にて遭難、翌年ロシアに漂着、10年後の寛政4年(1792年)に帰国した。その見聞体験は『北槎聞略』という書物に残されており、文政11年(1828年)78歳で江戸にて没した。本像は、鈴鹿市出身の稲垣克次氏の制作である。 台座側面に刻まれている歌 |
は、鈴鹿市が生んだ歌人で、第1回文化勲章受章の佐佐木信綱文学博士が、昭和3年(1928年)に若松を訪ねた時、光太夫に思いをはせ詠まれた。
大黒屋光太夫顕彰会 |
天保12年(1841年)、中浜万次郎遭難。 |
嘉永4年(1851年)、中浜万次郎帰国。 |
明治31年(1898年)、71歳で没。 |