嘉永6年(1853年)5月5日、吉田松陰は江戸に行く途中、奈良から伊賀上野に至る。 |
五日 晴。奈良を發す。山城に入り、加茂・笠置・大川原・島原(しまがはら)を經て、上野に宿す。行程九里。加茂以往は皆藤堂侯の領する所、獨り大川原は則ち柳生侯の領する所なり。 |
この城は昔大阪夏の陣のあがりに地震で倒れたのを、それ以來再興せず、城代は城外の屋敷にあつて政治をとつてゐたものであるさうな。その城代屋敷の跡といふのを城の上から見下ろして見たが其敷地のあとを見たゞけでも規模のまことに小さいものである。
「奈良街道」 |
昭和17年(1942年)、芭蕉の生誕300年を記念して川崎克は私財を投じ、伊東忠太の設計で俳聖殿を建立した。 平成22年(2010年)、俳聖殿は国の重要文化財に指定された。 |
上層の屋根は芭蕉の笠、その下部が顔を、下層の屋根は簑と衣を着た姿で、堂は脚部、廻廊の柱は杖と脚を表現する。 |
昭和10年(1935年)、川崎克の私財により復興天守が建設される。 |
昭和18年(1943年)4月29日、山口誓子は伊賀上野を訪れている。 |
私達は案内さるゝまゝに石階を登り、楼門を入り、小天守に小憩して後、大天守の三階まで上りつめた。 格天井にはあまたの書画が嵌め込んである。私はその中に 秋風や前山に糸の如き道 といふ虚子先生の句に眼をとめた。 この句は明治三十六年の作であるが、この展望楼にはうつてつけの句であつた。 そこから西北の方に御斎峠が見え、山腹をその峠に通ずる糸のやうな道も見えるのである。
「伊賀上野」 |
白鳳城 城壘や咲かむとしつつ藤白し 伊賀上野蘇枋の花を以て古ぶ 花蘇枋逢ふは他郷の人ばかり
『激浪』 |
昭和25年(1950年)4月24日、久保田万太郎は伊賀上野に入る。 |
二十五日、伊賀上野に入る。 ゆく春やみかけはたゞの田舎町
『流寓抄』 |