弘法寺の大門石階(いしはし)の下、南の方の小川に架す所の、ふたつの橋の中なる、小橋をさしていへり、(或人いふ、古へは、両岸より板をもて中梁(なかはり)にて打かけたる故に、継はしとはいふなりと、さもあるべきにや。) 『万葉集』 安能於登世受由可牟古馬母我可都思加乃麻末乃都芸波思夜麻受可欲波牟 『新勅撰』 勝鹿やむかしのまゝの継橋をわすれずわたる春がすみかな 慈円 |
その昔、市川北部の大地とその南に形成された市川砂洲との間には、現在の江戸川へ流れ込む真間川の河口付近から、東に入って奥深い入り江ができていた。この入り江を「真間の入り江」と呼び、手児奈の伝説と結びつけて伝えられた。「片葉(かたは)の葦(あし)」やスゲ等が密生していた。 |
明治元年(1868年)浮世絵師玉蘭斎貞秀が描いた鳥瞰図敵画法による錦絵です。 |
国府台に下総国府の置かれたころ、上総の国府とをつなぐ官道は、市川砂洲上を通っていた。砂州から国府台の台地に登る間の入江の口には幾つかの洲ができていて、その洲から洲に掛け渡された橋が万葉集に詠われた「真間の継橋」なのである。 |
足(あ)の音せず行かむ駒(こま)もが葛飾の真間の継橋やまず通はむ
『万葉集』(巻14 東歌) |
永正6年(1509年)、柴屋軒宗長は真間の継橋を訪れている。 |
真間の継橋の渡り、中山の法華堂本妙寺に一宿して、翌日一折などありしかど、発句ばかりを所望にまかせて、 杉の葉や嵐の後の夜半の雪 |
かつしかの真間にて 早乙女に足あらはするうれしさよ 其角 |
安永7年(1778年)8月14日、横田柳几は関東三社詣での途次、継橋を訪れている。 |
山門の石階を下りて板橋有長二間巾九尺是即継橋の跡なり側に石碑あり 継橋 継絶興廃維文維橋 詞林千載萬葉不凋 古歌にかつしかのまゝの浦風吹きにけり夕波こゆるよとの継橋の心をとりて |
継橋や今は尾花の波も越す | 柳 |
かつしかや間々の継橋はいづこぞ。まゝの手児女の奥城処ときこへしもさらにしる人なくて、真間のもみじと呼びて木のもとに杖をたてしに、それさへ秋にしあらぬを、 つぎ橋のしるべにもこの楓哉
「鎌都」 |
享和3年(1803年)10月、小林一茶も「真間の入江」を詠んでいる。 |
廿日 曇 金谷に入 かつしかや真間の入江にさちあれと柳ながめてのせぬ舟人
『享和句帖』(享和3年10月) |
文化14年(1817年)8月27日、国学者高田与清は間々の継橋のことを書いている。 |
○こゝを出て眞間ざまへたどりゆく。名にふりたる繼橋は、弘法寺の門の小川に渡せる橋也といふ。
按(おもふ)に、繼橋は木竹にもあれ、舟筏にもあれ、つぎならべて造りし橋なめれば、かゝるさをばしにはあるまじくや。まゝといふも土の心まゝにくづるゝ所ならんとおぼゆるに、今の國府臺は太井川に臨たる岡にて、水の心まゝに崩るゝママ(※土+重)なれば里の名にもむおひ、この太井川に繼渡せる橋なればつぎはしともいへるなるべし。 |
昭和7年(1932年)11月6日、高浜虚子は武蔵野探勝で真間の継橋へ。 |
締切にはまだ少し時間がある。真直に真間川の畔へ出る。途中一間余りの溝川に架かつてゐるのが名高い真間の継橋である。朱塗の欄干といへば立派に聞えるが、見る影もなく汚れて、傍に立つ「つぎはし」と刻つた標石を見て驚く位のものである。これも手古奈の井戸同様幻滅の悲哀の一つである。
『武蔵野探勝』(真間の晩秋) |