淀 こととはん淀の水車昔よりいく廻りして世をばへにきや
吉田松陰「涙松集」 |
平成28年(2016年)12月、ライオンズクラブ国際協会100周年事業・京都淀ライオンズクラブCN40周年記念に建立。 |
「淀の川瀬の水車誰をまつやらくるくると」で有名な淀の水車は、淀城の淀川沿いの城壁に2つあって、1つは淀小橋下流の宇治川と桂川の合流する辺り、もう1つはさらに下流の庭園近くに取付けられていました。 もともと宇治川筋には古来より灌漑用の水車があったと言われており、淀においても淀城が出来る以前に住んでいた河村与三右衛門の屋敷に水車があったと「淀下津町記録」には記されています。 「帝都を守護せむ地、淀にまされるはなし、汝今より淀に城築くべし」との徳川二代将軍秀忠の命を受けた松平定綱は寛永2年(1625年)に淀城を完成させ、初代城主に就きました。淀は宇治川、桂川、木津川、巨椋池、四方を川と池に囲まれた美しい水上の城下町となり、さらに二代目城主永井尚政が寛永15年(1638年)、木津川を南に下げて城下を拡張し、庭園を新設しました。永井藩主の家老、佐田川昌俊によって作られたという説が残っていることから、どうやらこの頃までに2基の水車が整備されたようです。 元禄5年(1692年)に江戸参府の途中、淀を通過したオランダ一行の医師ケンペルは「淀の町は美しく、水車小屋がその城の一部になっている」と書いています。また、江戸時代に来日した朝鮮通信使も絵と文章で淀の水車のことを伝えました。 宝暦年間(1753以降)淀稲葉藩士渡辺善右衛門はその著「淀古今真佐子」で次のように「淀の水車は日本国は言うに及ばす朝鮮、琉球、オランダまでも知れ渡ったものである。2つ2ヶ所にあって、二の丸居間の庭園用と花畑の茶屋の水鉢用に使用している。直径は4間(7.2メートル)、全体が竹製でわらび縄(蕨の繊維で作った縄)で結んだものである。心棒に毎朝小船に乗って水油(菜種油などの液状の油)を一升注さねばならない。油を多く注すと良く回る。箱形の釣瓶が20個付けられるようになっているが、多く付けると早く痛むので普段は3個にしている。この釣瓶の古いものが茶の湯の花入れとして大坂や西国で、人気となっている。」と記しています。 安永9年(1780年)に刊行された「都名所図会」や文久3年(1863年)に出版された「淀川両岸一覧」に淀城と水車が描かれ、淀城と言えば水車が付き物となっていました。葛飾北斎も「雪月花淀川」で淀城と水車を描きました。明治時代の画家冨田渓仙は淀の水車が好きで作品を残しています。 溶溶と流れる淀川の波に従い優雅に廻る水車の姿は、淀川を行き来する旅人の心を癒したに違いありません。 「ほととぎす待つやら淀の水車」 西山宗因 「霧の中何やら見ゆる水車」 上島鬼貫
(松井遠妙) |
祭神稲葉正成公は、淀藩稲葉家の祖である。 元亀2年(1571年)に美濃国(岐阜県)本巣郡十七条の城主、林家に生まれ、長じて稲葉重通の女婿となり、以後稲葉を称した。ところが、妻の死去により明智光秀の重臣斎藤利三の娘「福」を重通の養女として迎え再婚したのが、有名な「春日局」である。 正成は豊臣秀吉に仕えその命により、小早川秀秋の家老となり五万石を領した。 秀吉の没後、慶長5年(1600年)関ヶ原の合戦の功により徳川家康より感状を受け、のちに松平忠昌に仕えた。その後、下野国(栃木県)真岡の城主となり二万石を領したが、寛永5年(1628年)江戸において没し、現龍院に葬られた。 稲葉家が淀藩主になってのは、初代正成より数えて五代目の正知の時で、享保8年(1723年)下総国(千葉県)佐倉より十万二千石で入封した。 その後明治4年(1871年)十六代正邦の時に廃藩を迎えるまで、稲葉家が十二代148年間にわたり淀藩主であった。 |
江戸時代、朝鮮国から派遣されてきた外交使節団は主に「朝鮮通信使」とよばれる。その目的は徳川幕府からの招請に応えて朝鮮国王の国書を江戸の将軍に手渡すことであった。総勢約500名からなる一行のうち、船団関係者を除く約400名は大坂から淀川をこの淀まで幕府が手配した「川御座船」とよばれる豪華船で逆上ってきた。そして、ここから京都へ入り、琵琶湖畔の朝鮮人街道を経て、東海道を一路江戸へ向かった。ここでは一行の使臣や随員の轎・輿・荷駄、そして護衛の対馬藩主一行などのための乗り物が用意され、運送用におびただしい人馬が動員された。一行の上陸地点には「雁木」とよばれた特設の桟橋が設けられた。その長さは3.6間(64.8m)、幅7間(12.6m)と「山城淀下津町記録」にある。なお、唐人とはアジア系の人々を指す当時の用語で、この場合は朝鮮通信使一行を表す。慶長12年(1607年)から宝暦14年(1764年)までの間に11回、この唐人雁木が上陸、又は帰路の乗船用に利用された。当時と今とでは川筋が変わっており、実際にあったのはここより約200m北方の納所側の地点である。 |
徳川二代将軍秀忠は、元和5年(1619年)の伏見城の廃城に伴い、新たに桂川・宇治川・木津川の三川が合流する水陸の要所であるこの淀の地に松平越中守定綱に築城を命じて、元和9年(1623年)に着工、寛永2年(1625年)に竣工した。翌寛永3年、秀忠・家光父子が上洛の途次にはこの城を宿所としている。 寛永10年(1633年)国替えにより永井尚政が城主となり、その後、諸大名が次々と入城したが、享保8年(1723年)5月、春日局の子孫である稲葉丹後守正知が下総佐倉から淀へ移り、明治維新までの百数十年間、この淀城は稲葉氏十万二千石の居城であった。 江戸時代の淀城は周囲に二重三重の濠をめぐらし「淀の川瀬の水車誰を待つやらくるくると」のうたで名高い水車は、直径8メートルもあり城の西南と北の2カ所に取り付けられていた。 淀城とその城下町の盛観は延享5年(1748年)5月2日に来着した朝鮮通信使(将軍への祝賀使節)の様相を写した「朝鮮聘礼使淀城着来図」に詳しく描かれている。 昭和62年夏に天守台の石垣解体修理に伴い、発掘調査が伏見城研究会によって行われ、大小の礎石を含む石蔵が発見された。これは四隅に櫓を持つ白亜五層の天守閣の地下室の基礎であり、宝暦6年(1756年)の雷火で炎上する以前の雄姿を偲ばせるものである。 なお淀君ゆかりの淀城は現在の淀城跡ではなく、この位置から北方約500メートルの納所にあったと推定されている。
京都市 |
慶応4年(1868年)1月5日、鳥羽・伏見の戦いで敗れた旧幕府軍は淀城へ向かったが、淀藩は城門を閉ざして入城を拒絶した。 |