長岡京市勝竜寺の県道211号下植野長岡京線(ガラシャ通り)沿いに勝竜寺城公園がある。 |
勝竜寺城は、摂津から京都への交通の要衝にあり、京都防衛の要でした。 1568年、足利義昭を奉じて上洛した織田信長は、勝竜寺城の三好三人衆のひとり石成通友通を退けます。代わって勝竜寺城に入った細川藤孝(幽斎)が信長の命を受け、1571年に[瓦・石垣・天守]を備えた近代的な城郭に造り替えました。 勝竜寺城では、藤孝が三条西実枝から古今和歌集の奥義を伝える「古今伝授」の切紙を受けたほか、1578年には明智光秀の娘玉(ガラシャ)が藤孝の嫡男忠興(三斎)の許に嫁ぎ、2人の子宝にも恵まれました。 1582年、[本能寺の変]で主君信長を討った光秀が、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と戦った[山崎合戦]では、山崎から小泉川、勝竜寺城までの一帯が戦場となりました。秀吉との戦いに敗れた光秀は、勝竜寺城で最期の夜を過ごして坂本城に落ち延び、途中の山科・上醍醐付近で落命しました。 |
天正6年(1578年)、明智光秀の娘玉は、父の主君織田信長のすすめによって、勝龍寺城主の細川藤孝の嫡子忠興に嫁ぎます。その後、勝竜寺城を離れ、丹後に移るまでの2年間、ここで幸せな新婚生活を過ごしたと思われます。 しかし、天正10年(1582年)、に父の光秀が主君信長を討つ大事件(本能寺の変)を起こします。急ぎ近畿地方を平定しようとした光秀は、盟友で配下の藤孝・忠興父子に加勢を求めますが、父子はこの誘いを断ります。その後、光秀は羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)との山崎合戦に敗れ、居城の近江坂本城に落ち延びる途中で落命します。 光秀の死後、藤孝・忠興父子は、玉を丹後の味土野(みどの)(現在の京都府京丹後市)に幽閉します。幽閉が解かれ、大坂玉造の細川屋敷に移り住んだ後も、不自由な暮らしを強いられたようです。この頃、玉はキリスト教イエズス会の教会を訪ね、ほどなく信仰の道を進み始めます。天正15年(1587年)には、洗礼をうけてガラシャ(ラテン語で“恩寵・神の恵み”の意)の名を授かりました。しかし、秀吉の死後、再び天下が乱れます。徳川家康(東軍)と石田三成(西軍)との対立が激化しました。美濃関ケ原での決戦(関ケ原の戦い)に先立って、西軍は東軍の不在を付いて挙兵、大坂にいた諸大名の家族を人質に取ろうと、最初の標的として細川屋敷を取り囲みます。玉に人質になるように強要しましたが、彼女はこれをこれを拒否、屋敷に火をかけて壮絶な最期を遂げます。慶長5年(1600年)、38歳の生涯でした。 |