明治37年(1904年)10月、高浜虚子は清涼寺を訪れる。 |
清涼寺。 八宗争論の池の破荷 清涼寺門前の家や柿紅葉 |
昭和12年(1937年)4月3日、星野立子は嵯峨を吟行。 |
厭離庵といふ立派なお茶室のあるいゝお庭だけを一寸 拝見してすぐに又道に出る。その日の会場は宝篋院であ つた。美しい落花の一樹を奥庭に眺めながら、縁台をい くつも並べた庭で中食をする。追々とみなさんも集つて 来られる。 釈迦堂の春日の塀を牛車 |
五台山と号する浄土宗の古刹で、「嵯峨釈迦堂」の名で知られている。 この地には、一説では源氏物語の主人公の光源氏のモデルであったといわれる源融(とおる)の山荘、棲霞観(せいかかん)があり、融の没後、棲霞寺としたのが当寺の始まりである。天慶8年(945年)に等身大の釈迦像が安置され、これが通称の由来ともいわれている。 その後、インド、中国、日本の三国伝来となる釈迦如来立像を持って宋(中国)から帰国した「然(ちょうねん)上人が、その像を安置するため、愛宕山を中国の五台山に見立てた「大清涼寺」の建立を計画したが、志半ばで没したため、弟子の盛算(じょうさん)が清涼寺を建立して像を安置した。 昭和28年(1953年)、釈迦如来の背中に蓋が発見され、中に内臓を模した絹製の五臓六腑などが納められていたことから生身のお釈迦様とも呼ばれている。 本堂は、元禄14年(1701年)に徳川五代将軍綱吉、その母桂昌院らの発起により再建されたもので、本尊の釈迦如来立像(国宝)を安置しており、霊宝館には、阿弥陀三尊像(国宝)、文殊菩薩騎獅像(重要文化財)等、多数の文化財が祀られている。 このほか、境内には、「然上人、源融、嵯峨天皇、壇林皇后の墓などがある。
京都市 |
釈迦も粧う初秋の襞こまやかに | 海道 |
||||||||||
もろ蝉に息あわせ聞く釈迦若し | 佳子 |
造らせたまふ御堂は、大覚寺の南に当たりて、滝殿の心ばへなど劣らずおもしろき寺なり。これは川づらに、えもいはぬ松蔭に、何のいたはりもなく建てたる寝殿のことそぎたるさまも、おのづから山里のあはれを見せたり。内のしつらひなどまで思しよる。
『源氏物語』(松風) |
嵯峨天皇皇子で皇族賜姓の源融(822〜895)が、9世紀後半に嵯峨に営んだ山荘。融は晩年に写経や造仏に着手したが、業なかばで他界したので、子供たちが完成させて棲(栖)霞寺とした。永延元年(987年)、「然は宋より請来した釈迦如来像ほかを棲霞寺境内に安置し、宋の五台山清涼寺に倣った寺院の建立を目指したが果たせず、遺志を継いだ弟子によって棲霞寺の一郭に釈迦堂として発足したのが清涼寺である。かつて棲霞寺にあった阿弥陀三尊像(国宝)は、現在、清涼寺の霊宝館に安置されている。 『源氏物語』「松風」に、光源氏が造営した「嵯峨野の御堂」は大覚寺の南に所在したとあり、棲霞観の場所と一致する。河原院が六条院のモデルということと共に、源融が光源氏のモデルとされるゆえんである。
京都市 |
源融は「河原左大臣」と呼ばれ、百人一首の「みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに」が知られている。 |
いまもなほなつかしとおもふ夕霧の |
||||
墓にまうでしかへり路の雨 |
あでやかに太夫となりて我死なむ |
|
六十路過ぎにし露はかなくも |
名優と謳われた初代中村雁治郎さんの末娘に生まれた女優中村芳子さんが、郭文化を今に残す京の伝統の中に生きるべく、昭和55年11月嶋原・夕霧太夫を襲名されて7年間太夫としてあでやかに、京のまちを舞われた。 惜しくも昭和62年12月3日お亡くなりになった。 ここに、夕霧太夫を偲んでこの歌碑を建立いたしました。 |