明治37年(1904年)10月、高浜虚子は落柿舎を訪れる。 |
嵯峨落柿舎。 渡り鳥羽音聞きわくる庵かな |
明治41年(1908年)8月23日、高浜虚子は去来の墓に詣でた。 |
八月二十三日。第二十一回。 参りけり大樹の下に墓五つ 凡そ天下に去来程の小さき墓に詣りけり |
昭和4年(1929年)、阿波野青畝は落柿舎を訪ねた。 |
晩翠翁障子のうちとなりにけり
『万両』 |
竹藪の多い落柿舎を訪ねた。『嵯峨日記』を書いた芭蕉が「子規大竹藪をもる月夜」と詠まれた感慨がそのままわが心にも伝わるほど藪はあった。今は見るかげもなく変りはてた。蓑笠を掛けた荒壁を見て庭の方にまわる。きちんと二枚の障子がしまっている。縁に小座蒲団がないので、留守かと小声でうかがった。返事がきこえて障子があいた。ちゃんちゃんこを着た老人が私の顔を見つめて、「まあ上がんなさい、さむいからナ」としわがれた声ですすめられた。旧派の宗匠をしているけれど旧知だからすぐ好意を示され、私は上がり込んで休憩し、去来の話を聞いた。堀晩翠とよごれた木の表札が出ていた。この人なつこい老人がこのさきの底冷えする冬ごもり、日々のわびしさをどうするのかと、ひそかに同情するのであった。 |
春や祝嵯峨にて向井平二良 |
昭和37年(1962年)12月、石田波郷は星野麦丘人らと京都・宇治に遊ぶ。 |
嵯 峨 戸袋に干して落柿舎の柿二つ 去來墓双掌がくれに冷えにけり
『酒中花』 |
昭和40年(1965年)6月、山口誓子は落柿舎に句碑を訪ねている。 |
落柿舎の前は苗代田だった。 門を入って、ずんずん進んで、芭蕉の句碑の前に立った。横伏しの自然石。 五月雨や色紙へぎたる壁の跡 元禄四年、芭蕉は去来のこの別荘に来て滞在、「嵯峨日記」を書いた。五月四日、落柿舎を出でんとする前日、名残を惜しんで部屋々々を見廻ってこの句を書き入れている。 句碑は昭和三十七年建立。書は新しく、書はまだ石に定着していない。 その左隣に虚子の 凡そ天下に去来程の小さき墓に詣りけり の句碑が立っている。御影石の背の高い句碑だ。 去来の小さい墓に詣でた句である。「凡そ天下に去来程の小さき墓に」は「凡そ天下に去来の墓ほどの小さい墓はないが、その小さい墓に」と云うのだ。乱調甚だし。明治四十一年の作。 境内に去来の句碑もある筈だ。それをやっと探し当てた。私が芭蕉の句碑へ早く行こうとしてずかずか歩いていたとき、通り過ぎた石が去来の句碑だった。足許に隠るるばかり低い石だったのだ。自然石に 柿主やこずゑはちかきあらし山 この句は、去来が元禄二年に書いた「落柿舎記」の末尾に記されている。 「風俗文選通釈」に「あらし山の近ければ落つるとの心なるべし」と書かれている。柿の落つるを嵐の所為とするのだ。果して然るか。 句碑は明和七年この地に建立された。「木寸衛盤ち可起阿らし山」の字のところどころに苔がついている。
『句碑をたずねて』(京都) |