2011年京 都

落柿舎〜碑巡り〜
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京都市右京区嵯峨小倉山緋明神町に落柿舎(HP)がある。


明和7年(1770年)、蝶夢門下の井上重厚が再建。

以前はあまりに人が多くて入れなかった。

今日は人も少ないので、入園してみる。

柿木と紅葉


 明治37年(1904年)10月、高浜虚子は落柿舎を訪れる。

嵯峨落柿舎。

 渡り鳥羽音聞きわくる庵かな


 明治41年(1908年)8月23日、高浜虚子は去来の墓に詣でた。

八月二十三日。第二十一回。

 参りけり大樹の下に墓五つ

 凡そ天下に去来程の小さき墓に詣りけり


落柿舎内部


 昭和4年(1929年)、阿波野青畝は落柿舎を訪ねた。

晩翠翁障子のうちとなりにけり

『万両』

 竹藪の多い落柿舎を訪ねた。『嵯峨日記』を書いた芭蕉が「子規大竹藪をもる月夜」と詠まれた感慨がそのままわが心にも伝わるほど藪はあった。今は見るかげもなく変りはてた。蓑笠を掛けた荒壁を見て庭の方にまわる。きちんと二枚の障子がしまっている。縁に小座蒲団がないので、留守かと小声でうかがった。返事がきこえて障子があいた。ちゃんちゃんこを着た老人が私の顔を見つめて、「まあ上がんなさい、さむいからナ」としわがれた声ですすめられた。旧派の宗匠をしているけれど旧知だからすぐ好意を示され、私は上がり込んで休憩し、去来の話を聞いた。堀晩翠とよごれた木の表札が出ていた。この人なつこい老人がこのさきの底冷えする冬ごもり、日々のわびしさをどうするのかと、ひそかに同情するのであった。


去来の句碑


柿主や梢はちかきあらし山

安永元年(1772年)、井上重厚建立。

洛中第一に古いとされる句碑だそうだ。

落柿舎外部


安永6年(1777年)、乙二は修験道本山聖護院に赴く。落柿舎を訪れている。

春や祝嵯峨にて向井平二良


芭蕉の句碑


五月雨や色紙へぎたる壁の跡

元禄4年(1691年)5月4日、芭蕉が『嵯峨日記』の最尾に記した句。

『笈日記』(支考編)に「色紙まくれし」とある。

虚子の句碑


凡そ天下に去来ほどの小さき墓に詣りけり

昭和34年(1959年)、建立。

生前最後の自筆句碑で、破調吟としてよく知られているそうだ。

 昭和37年(1962年)12月、石田波郷は星野麦丘人らと京都・宇治に遊ぶ。

   嵯 峨

戸袋に干して落柿舎の柿二つ

去來墓双掌がくれに冷えにけり

『酒中花』

 昭和40年(1965年)6月、山口誓子は落柿舎に句碑を訪ねている。

 落柿舎の前は苗代田だった。

 門を入って、ずんずん進んで、芭蕉の句碑の前に立った。横伏しの自然石。

   五月雨や色紙へぎたる壁の跡

 元禄四年、芭蕉は去来のこの別荘に来て滞在、「嵯峨日記」を書いた。五月四日、落柿舎を出でんとする前日、名残を惜しんで部屋々々を見廻ってこの句を書き入れている。

 句碑は昭和三十七年建立。書は新しく、書はまだ石に定着していない。

 その左隣に虚子の

   凡そ天下に去来程の小さき墓に詣りけり

の句碑が立っている。御影石の背の高い句碑だ。

 去来の小さい墓に詣でた句である。「凡そ天下に去来程の小さき墓に」は「凡そ天下に去来の墓ほどの小さい墓はないが、その小さい墓に」と云うのだ。乱調甚だし。明治四十一年の作。

 境内に去来の句碑もある筈だ。それをやっと探し当てた。私が芭蕉の句碑へ早く行こうとしてずかずか歩いていたとき、通り過ぎた石が去来の句碑だった。足許に隠るるばかり低い石だったのだ。自然石に

   柿主やこずゑはちかきあらし山

 この句は、去来が元禄二年に書いた「落柿舎記」の末尾に記されている。

 「風俗文選通釈」に「あらし山の近ければ落つるとの心なるべし」と書かれている。柿の落つるを嵐の所為とするのだ。果して然るか。

 句碑は明和七年この地に建立された。「木寸衛盤ち可起阿らし山」の字のところどころに苔がついている。


弘源寺小倉山墓地へ。

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