或年、石清水八幡宮近きわたりに春を待得て |
男山を楯に明行花の春 |
又 男山神がきちかくたちなれて去年より待し春は来にけり |
謡曲「弓八幡」は男山八幡宮の神徳をたたえ、威武の聖代を祝う曲である。 この謡を「弓八幡」と名づける事は、八幡大菩薩は源氏の氏神弓矢の守護神であるから弓と矢と幡との三つの兵具に訳して弓八幡と名付けたのである。とある。 直(すぐ)な御代のためしであるこの祝言は、弓矢を以て戦勝を祝うのではなく、弓を袋に入れて武をおさめるのである。 作者世阿弥は平和論者である。武家中心時代に於て平和論を唱え、将軍専横時代に於てとりわけて皇室を尊敬し奉る。これが一能役者の見識であり熱情であったのである。と謡曲大観は論じている。 本宮は、貞観元年行教和尚が宇佐八幡紳に参籠して神告を受け、奏請して建立したという。
謡曲史跡保存会 |
同十四日 石清水八幡宮 芹吟行 かの蝶かかの蝶か盛りなり
『芹』 |
蘆刈抄 わたしの乗つた船が洲へ漕ぎ寄せたとき男山はあたかもその絵にあるやうにまんまるな月を背中にして全山の木々の繁みがびろうどのやうな津やをふくみ、まだどこやら夕ばえの色が残つてゐる中空に暗く濃く黒ずみわたつてゐた |
谷崎潤一郎(1886年〜1965年)は、関東大震災を契機に関西に移住して以降、その風土と伝統文化に魅せられ、純日本的、古典的なものを主題とする作品を多数発表した。小説「蘆刈」は、「春琴抄」等とともに女性を賛美し、永遠の美を追求した中期の名作群の一つとされている。 大山崎から橋本へ渡る淀川の中州が小説の舞台であり、男山と月の描写は小説のもつ夢幻能の効果が考えられている。 この文学碑は、「やわた文学建立事業」の第3基目として、谷崎生誕百年にあたる1986年7月24日に序幕された。
八幡市 |
石清水八幡宮は、もと男山山中から湧き出る清泉を神として祀ったのが起こりと伝え、平安時代の貞観年間(859〜876)に奈良大安寺の僧行教が神託により宇佐八幡紳を勧請し、石清水八幡宮と称したことに始まります。 石清水社は、石清水八幡宮の摂社の一つで、天御中主命を祀っています。現在も岩間から清水が湧き出しており、社前の鳥居は寛永12年(1636年)京都所司代板倉重宗が寄進したものです。
京都府 |