2021年〜京 都〜
涙ヶ磯(身投げ石)〜謡曲「丹後物狂」〜
この磯を涙ヶ磯といい、正面の牛の背のような石を身投げ石とよぶ。 丹後の近世地誌類は二つの伝承を伝えている。 一つは謡曲「丹後物狂」の関連の伝承である。岩井殿はこのあたりの長者で、文殊大士に祈って男子花松をもうけた。花松は、成相(なりあい)寺で修行のころ、ふと吐かれた父の叱責のことばに、この磯から身を投げて死のうとする。それを筑紫の船頭にとりあげられて九州彦山で修行し大成、そして忘れられぬ父を尋ねて再びこの地に来た。いっぽう、子を失った父は悔いて狂乱、わが子を尋ねて果たさず、再びこの地に帰ってきた。その二人が文殊堂で再会するという筋である。この「丹後物狂」は室町時代、井阿弥の原作を世阿弥が改作した能で、人気曲であったが、江戸時代に廃曲の道をたどったとされる。 もう一つは、江戸時代後期の『丹哥府志』に記された伝承で、源平合戦の時、屋島に敗れた平忠房(丹後侍従、平重盛の子)の白拍子花松が、あるじに向けられる源氏の捜索の目をくらまさんがため、ここで身を投げて死んでしまったという悲話である。
宮津市教育委員会 |
謡曲「丹後物狂」は、智恩寺文殊堂に願掛けして生まれた子と親をめぐる物語ですが、全体に文殊菩薩の霊威と利生が貫かれています。 白糸浜の住人・岩井殿は、祈願して生まれた花松を、稚児として成相寺に預け、勉強させていた。ある日面会したところ、召使の説明から勉学よりも雑芸に興じていると誤解し、腹を立てて勘当してしまう。悲しんだ花松は、この涙ヶ磯から身を投げたが、幸い筑紫舟の船頭に助けられた。 花松はその後、九州の彦山の寺で修行し、立派な高僧となって文殊堂に帰って来る。子を失って狂人となっていた父と再会し、抱き合って喜ぶのだった。
謡曲史跡保存会 |