新緑のまつりの歌をよむことも |
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嵯峨風流のひとつなるべし |
皐月よし野山のわか葉光満ち |
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末も終りもなき世の如く |
明治41年(1908年)8月23日、高浜虚子は「去来の墓」に参拝している。 |
八月二十三日。第二十一回。 参りけり大樹の下に墓五つ 凡そ天下に去来程の小さき墓に詣りけり 由公の墓に参るや供連れて 此墓に系図はじまるや拝みけり |
大正11年(1922年)12月7日、高浜虚子は落柿舎を訪ねて去来の墓に詣でた。 |
天龍寺の庭を見、修竹林の間を過ぎて野々宮の旧跡を弔ひ、落柿 舎を訪ねて去来の墓を弔ひ、二尊院の前を過ぎて祇王寺を訪ふ。 |
昭和3年(1928年)7月1日、荻原井泉水は「去来の墓」を見ている。 |
私達は二尊院の道へ曲って、そこの藪の中にある去来の墓を展した。権、樫、楠などの木がひょろひょろと立っていて、一方は竹林であり、それは落柿舎の裏を蔽っている竹林だから、つまり墓は落柿舎の後庭にあるといってもいいのである。低い竹垣をめぐらした中に、その垣竹よりも低く小さい、烏帽子のような形をした石に、ただ 去 来 と刻んである。所で、この墓というものも、重厚が明和年間に落柿舎を再建した後に建ったもので、本当の去来がここに埋められているのではない。
『随筆芭蕉』(落柿舎) |
「去来の墓」にて。 「詩人はいのち墓は塊(いしくれ)」妻の語冴ゆ
『大虚鳥』 |
二尊院を辞して、藪道を西へ行くと、左側に「去来先生墳」という標石が立っている。導かれてその墓に詣でた。「去来」とただ二字だけ書いたその墓はいつ見ても小さい。 藪道に戻って、西行をつづけ、左折して落柿舎の前に到った。
『句碑をたずねて』(京都) |
小倉の麓に住み侍りけるに鹿のなきけるをきゝて 牡鹿なく小倉の山のすそ近みたゞひとりすむ我心かな |