鞍馬寺。痩石、鱸江、東洋城、水棹、鼓村、暁空と七人。 銅鑼の音の月に響くや鞍馬山 露けしと篝焚くなり籠り堂 |
鞍馬山 鞍馬寺にのぼり來りてやすらふも一時にしてをはりとぞおもふ 少年の義經のこともいめのごとき僧正谷にわれの汗垂る |
明治45年(1912年)5月5日、晶子は新橋駅から渡仏の旅に出る。19日、パリ着。パリで詠まれた歌である。 |
山上の霊宝殿(鞍馬山博物館)2階の與謝野記念室には、先代貫主の和歌の師、與謝野寛・晶子両先生の歌ごころを偲び、後学の資とならんことを願って、歌稿や遺品類を収蔵、展示しています。 また霊宝殿付近には、晶子先生の書斎「冬柏亭」や両先生の歌碑もあります。 |
大正4年(1915年)5月、與謝野晶子は寛の衆議院議員選挙応援のため京都を訪れている。 昭和10年(1935年)3月26日、與謝野寛は62歳で没。 昭和11年(1936年)5月15日、与謝野晶子は鞍馬に上り1泊している。 |
聖より轎をたまひぬ九十九折くらまの寺へ五月に上る(鞍馬にて) 鞍馬寺木の芽を添へて賜はりぬ朝がれひにも夕がれひにも 菁莪の花鞍馬のひじり山を出づうす雪ならば哀れならまし 義經堂女いのれりみちのくの高館に君ありと告げまし
『白桜集』(霧閣雲窓章) |
昭和15年(1940年)7月、吉井勇は鞍馬山を越えて貴船の里へ。 |
鞍馬山 昭和十五年七月、鞍馬山を越えて貴船の里に 到る 荒法師竹を伐るてふ山まつり過ぎて鞍馬の夏はふかしも のぼり來ていささか寂し道の邊の著莪の群生(むらふ)は花なしにして 山往けば與謝野の大人(うし)の歌碑のあるあたりかそけく松蝉のこゑ 遮那王の背くらべ石のあるあたり山深うしてもの思(も)ふによし
『遠 天』 |
昭和16年(1941年)1月6日、吉井勇は鞍馬の詣で、與謝野寛の歌碑を見ている。 |
一月六日、不圖思ひ立ちて鞍馬の初寅詣にゆ く、この山には亡き師與謝野寛先生の歌碑あ りてなつかし 人よりも石はなつかしまして師が歌を刻める鞍馬石これ なつかしさ遽かに湧き來石の面に刻める師の字見つつし居れば かたはらの赤き實を見て師の主筆思ひ出しぬ歌碑はなつかし 師に詫びむ遮那王の歌戀しけど鞍馬嶺ふかく來ることや稀 わが持つは阿吽の虎にあらずして師が歌石の傍の著莪の葉
『わが歌日記』 |
冬柏忌 五月三十一日、今日鞍馬寺にて冬柏忌の催あ りと聽けど、粥腹にては山に登りがたし。遙 かに山上にある與謝野先生の歌碑を思ふ。 冬柏忌今日ぞと思ひ空見れば鞍馬嶺あたり雲はふかしも 師が歌を刻める石のかたはらの一面の著莪花咲くや否や あはれこの冬柏の忌をまへにして晶子夫人は死にたまひけり
『霹 靂』 |
与謝野家は、昭和2年に当時の東京市外荻窪村(杉並区荻窪2ノ119)へその居を移した。広い屋敷の中には「采花荘」と呼ぶ日本屋と「遙青書屋」という大きな洋館があった。 この2つの建物の間に「冬柏亭」と呼ばれる書斎が、晶子先生の五十の賀のお祝い(昭和4年12月)に、お弟子さんから贈られた。それが完成したのは昭和5年3月である。 晶子先生の没後、昭和18年10月に冬柏亭は門下生の岩野喜久代氏によって、大磯にある氏の住居へ写された。 それが岩野氏のご好意から、さらに鞍馬山に移築されたのは昭和51年4月のことで、同門の信楽香雲先代管長とのご縁によるものである。 (寄贈された関係資料は、霊宝殿に収納展示されています) |
昭和44年(1969年)10月25日、富安風生は高山寺の句碑除幕式に参列、その後鞍馬寺に遊ぶ。 |
鞍馬寺“これやこの音にききつる……”(定家集) 紅葉してこれや鞍馬の雲珠桜
『米寿前』 |
遮那王と名のって10年あまり鞍馬山で修行をしていた牛若丸が山をあとに奥州平泉の藤原秀衡の許に下るときなごりを惜しんで背を比べた石といわれる。波乱に富んだ義経公の生涯は、この石に始まるといえよう。 |
歴史には文治5年(1189年)4月、奥州衣川の合戦にて自害したと伝えるが、義経公の御霊はこの山におわし遮那王尊として護法魔王尊の破邪顕正のお働きを助けておられるという。 この義経堂には遮那王尊をおまつりする。 |
木の根道は、硬い地質のため杉の根が地中に入り難く、地表を這っている珍しい姿です。木の根は、樹木を育て生命を支える大切な働きをしています。できるだけ踏まないよう、やさしく接して下さい。 |
明和元年(1764年)10月、多賀庵風律は田子の浦の帰途、鞍馬寺に参詣している。 |
かくてあけ行霜をふミてしの原坂を打声て静原に出てくらまに詣す爰ハいにしへの名高き人々いくたりか詣來てやさしき文にもたけき文にものせたれハ木柱のさままれなつかしきさまなるへし藤の伊勢人の參籠の座東光坊の跡義經僧正か谷の石の姿もさすかにむかしの俤を殘す大天狗の社ぬかつきなから先皃もと思ひ出たり あかゝりの痕とやいはん岩に太刀 |