2021年京 都

神足神社〜勝竜寺城土塁・空堀跡〜
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長岡京市東神足に神足神社がある。

参 道


拝 殿


 旧神足村の産土神。式内社で「延喜式」にのる乙訓十九座の一つで「神足神社」とみえる。また、文徳天皇の斉衡元年(854年)に国の官社にあげられている。

 祭神は、「舎人親王(天武天皇の子)」であるといわれている。

 当社には「桓武天皇の夢」として次のような伝説が残っている。<田村(神足村の旧名)の池に天から神が降り立ち、宮中を南から襲おうとした悪霊を防いでおられた夢を見られたと言う。天皇は目覚められ、田村にこの神を祭る社を建てさせ、太刀と絹を秘蔵させた。>以後、この社は「神足神社」と、田村は「神足村」と呼ばれるようになったと言われる。

長岡京市観光協会
(社)京都府観光連盟

勝竜寺城土塁・空堀跡


 永禄11年(1568年)に、足利義昭を奉じて織田信長が入京すると、それに従った細川藤孝(のちの幽斎)は、しばらくして勝龍寺城に入りました。

 藤孝は元亀2年(1571年)に、信長の許可を得て勝龍寺城の改修を行いました。ここに現存する土塁と空堀は、城下町を囲うように設けられた外郭線の一部で其の時の改修に伴うものと考えられています。天正8年(1580年)に藤孝は丹後へ移封となり、翌9年には織田信長の近臣である矢部家定と猪子高就が勝龍寺城の城代となります。天正10年の山崎の合戦では、明智光秀の軍勢が陣取りますが、その後、廃城となりました。

 勝竜寺城本丸の北東に位置するこの土塁・空堀跡は東西に約50m、堀の底からの高さ約6mが残っています。土塁の西端は南北方向の土塁と連結し、複雑な構造となっています。空堀は土塁に沿って北側から東側にかけて掘られ、南北土塁から東へ約20mのところには、土橋を架けて横矢掛かりの虎口をつくり、敵が容易に城内へ入れない仕組みになっています。

 これらの築城技術は、藤高が信長から取り入れたものと考えられます。短期間で使用を終えたため、築城の時期が特定できる大変貴重な遺稿です。

長岡京市

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