2021年京 都

北野天満宮〜菅原道真〜
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30年ぶりに北野天満宮へ。

鳥 居


承和12年(845年)6月25日、菅原道真は京都の菅原院で生誕。

昌泰4年(901年)正月25日、藤原氏によって太宰権帥に左遷された。

延喜3年(903年)2月25日、配所榎寺で一生を終る。

延喜4年(904年)、防府天満宮建立。

延喜19年(919年)、太宰府天満宮創建。

参道の右手に「露の五郎兵衛」があった。


人艸(草)
 来た野(北野)
露乃
 五郎兵衛(ごろびょうえ)

出典/山東京伝『近世奇跡考』

平成11年(1999年)3月、二代目露の五郎建立。

 昔、延宝・天和の頃(延宝・天和(1681〜84)、露の五郎兵衛という人が、此処、北野天満宮をはじめ、祇園真葛が原、四条河原、百万遍、その他諸所の開帳場で場所を占め、自作の笑いばなしを口演、都の名物男と言われて、日本の落語家第一号となりました。

 元禄16年(1703年)61歳で亡くなるまで、都の人気を一身に集め、数部の咄本を著わし、遺した咄三百数十話、直接、間接に、現行落語の原点になっているものが沢山あります。

三光門(中門)


三光門(中門)重要文化財

「天満宮」の勅額は後西天皇の御宸筆である。三光の由来は、豊富な彫刻の中に日・月・星があることによる。

三光門(中門)の梅


全国天満宮総本社北野天満宮

 菅原道真公(菅公)を祀る全国約1万2000社に及ぶ天満宮、天神社の総本社。

 「和魂漢才」の精神を提唱された菅公は、後に「文道大祖風月本主」と称えられ、学業成就や厄除、技芸上達の神として信仰を集めている。

 村上天皇天暦元年(947年)、平安京の北西(天門)に創祀され、天徳3年(959年)藤原師輔卿が御社殿を造営、以来朝野の崇敬篤く、殊に一條天皇には「北野天満大自在天神」の神号を賜り、格別の尊崇を受け、「天神さま」として全国に伝播した。

 また、天正年間には豊臣秀吉公が境内一帯の北野松原で北野大茶湯を催し、慶長年間には出雲阿国が京において初めてややこ踊り(歌舞伎踊り)を演じるなど、日本文化発信の中心地として強く意識されてきた。

 現在の御本殿(国宝)は、豊臣秀頼公が、慶長12年(1607年)に造営されたもので、八棟造(やつむねづくり)と称し、権現造の原型となった桃山建築の代表的遺構である。また、中門は三光門と呼ばれ、後西天皇御宸筆の勅額「天満宮」を掲げている。

 宝物としては、紙本著色北野天神縁起絵巻・承久本(国宝)をはじめ、貴重な文化財を多数蔵している。

 毎月25日の御縁日(天神さんの日)には多くの参拝者で賑う。

京都市

徳光衣城の句碑があった。


ゆふづつや
  こぼれて
あをき
  花槐(えんじゅ)

 明治17年(1884年)、徳光衣城は大阪に生まれる。本名は伊助。生涯を新聞人として活躍。

 昭和28年(1953)年)、69歳で没。

 昭和45年(1970)の梅花祭に建立。

碑陰に「外套を肩に新聞記者かえる」の句が刻まれているそうだ。

飛梅 御神木の紅梅


幹周りや力強く根を張った形状、接ぎ木の形跡などから樹齢400年以上と見られる

御祭神菅原道真公の御心に寄り添い飛翔した各地の「飛梅伝説」の原種であることが明らかになっている

拝 殿


昭和8年(1933年)4月15日、高浜虚子は北野天満宮を訪れている。

北野天満宮。

 御神輿の宮に還幸夕ざくら


「和魂漢才」碑


「菅家遺誡」の中の「和魂漢才」に関する二章を記したもので、菅公の御精神を周知せしめるために嘉永元年に座田維貞が東坊城聡長に揮毫を請うて建碑したものです。

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