しかし私が歌碑として最も親しみを感じているのは、京都の大和大路からちよつと東に入つた白川河畔にある歌碑であつて、これは堂本印象君の構想になるもので、東山になぞらえた鞍馬石に、私が五十年ほど前に作つた「かにかくに祇園はこひし寝(ぬ)るときも枕の下を水の流るる」という歌を刻んだものである。これは祇園の甲部の人達が主唱者となつて建ててくれたもので、毎年十一月八日には「かにかくに祭」というのを催し、祇園の芸者や舞妓達が接待に当り、来てくれた客に抹茶と蕎麦とを饗することにしている。
「歌碑について」 |
かにかくに
祇園はこひし
寐(ぬ)るときも
枕のしたを
水のながるる |
この歌は、祇園をこよなく愛した歌人として知られる吉井勇(1886〜1960)が明治43年(1910年)に詠んだ一首で、彼の歌集『酒ほがひ』に収められている。 当時は白川の両岸に茶屋が建ち並び、建物の奥の一間は川の上に少々突き出ており、「枕のしたを水のながるる」はその情景を詠んでいる。しかし、第二次世界大戦下の昭和20年(1945年)3月、空爆の疎開対策に白川北側の家々は強制撤去され、歌碑が建っているこの地にあった茶屋「大友(だいとも)」も犠牲になった。大友は当時の文人、画人たちと幅広く交流のあった磯田多佳の茶屋である。 昭和30年11月8日、友人たちにより吉井勇の古稀(70歳)の祝いとして、ここに歌碑が建立された。発起人には、四世井上八千代、大谷竹次郎、大佛次郎、久保田万太郎、里見敦、志賀直哉、新村出、杉浦治郎右衛門、高橋誠一郎、山義三、谷崎潤一郎、堂本印象、中島勝蔵、西山翠嶂、湯川秀樹、和田三造などそうそうたるメンバーが顔をつらねた。 以来、毎年11月8日には吉井勇を偲んで、「かにかくに祭」が祇園甲部の行事として行なわれている。
京都市 |
京に老ゆ祇園の歌の碑の石もこのごろすこし苔づきにけり
「『形影抄』以後」 |
大正4年(1915年)、夏目漱石は木屋町の宿から祇園の茶屋「大友」の女将磯田多佳に発句を送っている。 |