2022年京 都

城南宮〜鳥羽伏見の戦い跡〜
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京都市営バス19「中書島・横大路車庫行き」で、「城南宮」へ。

国道1号(京阪国道)沿いに城南宮(HP)がある。

鳥羽伏見の戦い跡

 ここ城南宮から、明治維新を決定づける戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見の戦いが始まった。

 慶応3年(1867年)12月9日の王政復古の大号令で幕府は廃され、前将軍徳川慶喜は12日に京都の二条城から大坂に退いた。しかし、新政府側の薩摩藩の行為に憤激し、慶応4年正月2日、旧幕府兵および会津・桑名両藩の兵からなる大軍が大坂から京に向かった。

 これに対し朝廷では、薩摩、長州、土佐等諸藩の兵を鳥羽と伏見に繰出し、鳥羽では城南宮から鳥羽街道の小枝橋に至る参道に、伏見では御香宮神社附近に陣を構えた。

 翌1月3日、都を目指し鳥羽街道を北上する旧幕軍は、ここ城南宮から南南西500メートルの地点に達し、入京を阻止する薩摩軍と長時間対峙した。夕闇が迫り強行突破の構えを見せるや、城南宮の参道に置かれた薩摩軍の大砲が轟き、続いて伏見でも両軍が衝突、激戦となった。

 4日も下鳥羽から伏見にかけて戦闘が続いたが、仁和寺宮嘉彰親王が錦の御旗を奉じて御所を出陣との報が伝わり、官軍となった新政府軍の士気は大いに高まった。

 5日、錦の御旗は鳥羽街道を南に進み、旧幕軍は、八幡へ退却、新政府軍の勝利が決定的となった。こうして新しい時代が始まったのである。

京都市

鳥羽伏見の戦い


 慶応4年(1868年)正月3日城南宮の一帯に布陣した五百数十名の薩摩兵は、小銃に弾を込め、西参道に四門の四斤山砲を捉えて都を目指す旧幕府軍を待ち受けます。大軍が強行突破しようとするや砲撃、ここに鳥羽伏見の戦いが始まりました。西郷隆盛大久保利通らの朝廷への働きかけが実り、4日、仁和寺宮嘉彰親王が征討大将軍に任命されて錦の御旗が翻り、官軍となった薩摩や長州勢の志気は高まります。御所から東寺の本営に入られた征討大将軍は、5日、錦の御旗を押し立て鳥羽街道を南進、鳥羽、淀、伏見を巡見されました。徳川慶喜は6日夜に大坂城を脱出、船で江戸へ戻ります。こうして官軍が勝利を収めるのです。

明治天皇の大坂行幸


 新国家の方針五箇条の遵守を天皇・公卿・藩主らが京都御所で天地神明に誓って(五箇条の御誓文)から7日後の3月21日、数え17歳の明治天皇は大坂に向かわれ、その途中、城南宮にお立ち寄りになりました。城南宮では紀州藩の兵士200名が守衛に当たります。三種の神器の八咫鏡をお遷しした御羽車は御本殿の浜床に奉安され、「天照皇太神」の文字が金箔で押された錦の御旗は拝殿の南西に立てられます。そして天皇は拝殿でお昼を召し上がられました。大坂に44日ご滞在、閏4月8日の還御の際も城南宮で昼食をお召し上がりになりました。この行幸を祈念する石碑が、城南鳥居(朱の鳥居)内の西側に立っています。

朱の鳥居


拝 殿


神苑の拝観料は800円。

平安の庭に臼田亜浪の句碑があった。


曙や比枝の
 かすみの
  街へのび

昭和39年(1964年)11月、京都石楠会建立。

平安の庭


与謝野晶子の歌碑


  五月雨に
 築土くつれし
鳥羽殿のいぬゐの池に
 おもたかさきぬ

ウツギ


前近き前栽、呉竹、下風涼しかるべく、木高き森のやうなる木ども木深くおもしろく、山里めきて、卯花の垣根ことさらにしわたして、昔おぼゆる花橘、撫子、薔薇、くたになどやうの花のくさぐさを植ゑて、春秋の木草、その中にうちまぜたり。東面は、分けて馬場殿つくり、埒結ひて、五月の御遊び所にて、水のほとりに菖蒲植ゑしげらせて、むかひに御厩して、世になき上馬どもをととのへ立てさせたまへり。西の町は、北面築きわけて、御倉町なり。

『源氏物語』(乙女)

新 緑


カキツバタ


かきつばた衣に摺りつけますらおのきそひ猟する月は来にけり

『万葉集』(巻第十七)

タチバナ


   橘の香をなつかしみほととぎす花散る里をたづねてぞとふ

いにしへの忘れがたき慰めにはなほ参りはべりぬべかりけり。こよなうこそ紛るることも、数そふこともはべりけれ。

『源氏物語』(花散里)

城南離宮の庭


鳥羽離宮跡公園へ。

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