信長が光秀の謀反により無念の自刃をとげたのは天正10年(1582年)6月2日早朝のことだった。本能寺の変である。そのころはの当寺は、四条洞院にあり、四町四面の広大な寺域、周囲に掘と土塁その内部に七堂伽藍や多くの子院や厩舎(うまや)を備えるという城郭構えになっていて信長が常宿するにふさわしい都で随一の大寺院であった。 この大伽藍が烏有に帰し、光秀の天下もわずか十数日で終わったあと、信長の三男信孝は信長らの燼骨(じんこつ)収集の作業をすすめ、本能寺の変から一箇月後の7月3日早くも本能寺を父信長の墓所と定めた。この信長の墓はこのとき信孝が建立したものである。此の御廟には、武将の魂とされる信長所持の太刀が納められている。
當山識 |
天正17年(1592年)、第14代貫首日衍聖人により再建、秀吉の命にて現在地に移転。 元治元年(1864年)7月19日、蛤御門の変にて焼失。 昭和3年(1928年)、現在の本堂再建。 |