公任卿家にて、紅葉、天の橋立、恋と三つの 題を人々によませけるに、遅くまかりて人々 みな書くほどになりければ、三つの題を一つ によめる歌
藤原範永朝臣
恋ひわたる人に見せばや松の葉のしたもみぢする天の橋立おなじ御時、百首歌たてまつりけるによめる なみたてる松のしづ枝をくもでにてかすみわたれる天の橋立 丹波国にまかれりける時よめる
赤染衛門
思ふ事なくてぞ見まし与謝の海のの天の橋だて都なりせば |
丹後天橋立陸 |
|||||||||||||||||||||||||
奥松島安藝嚴 |
|||||||||||||||||||||||||
嶋爲三處奇觀 |
|||||||||||||||||||||||||
寛永二十年日本國事跡考 |
|||||||||||||||||||||||||
林春斎 |
平成6年(1994年)12月2日、日本三景観光連絡協議会創立20周年記念に建立。 |
府道「天の橋立線」は昭和62年(1987年)8月10日の「道の日」に、建設大臣から日本の特色ある優れた道路と認められ、「日本の道100選」の1つとして顕彰されました。 この府道「天の橋立線」は、日本三景の1つ天橋立の中を通る道路であり、周囲の景観との調和を図るため砂利道のまま管理しています。道路の幅員は3.5メートル〜5.5メートルで、沿道には大小約7,000本の黒松が続き、白砂にふちどられた天恵の景観を有するとともに、数多くの史跡や物語を秘め、美しい風光を保ち、地元の人々はもとより、全国的にも多くの人々から愛され親しまれています。
京都府 |
明治38年(1905年)9月23日、長塚節は天の橋立へ。 |
二十三日、橋立途上 葦交り嫁菜花さく與謝の海の磯過ぎくれば霧うすらぎぬ 橋立 橋立の松原くれば朝潮に篠葉しのば釣る人腰なづみ釣る |
昭和5年(1930年)5月20日、与謝野寛・晶子夫妻は天橋立を散策。 |
人押して廻旋橋のひらくときくろ雲うごく天の橋だて 御佛の多寶塔をば負ひたれど涙の磯と聞けばはかなし 橋立の松のつなげりまごころの籠りの宮となみだの磯と
「落葉に坐す」 |
昭和10年(1935年)3月26日、与謝野寛は62歳で没。 昭和15年(1940年)4月27日、与謝野晶子は天橋立を散策。 |
橋立の洲の松蔭に水だまり置きむら雨の霽れにけるかな 由良が嶽舞鶴の崎しののめを負ひまだ開けず天の橋立 |
昭和17年(1942年)5月29日、与謝野晶子は64歳で没。 |
小雨はれみどりとあけの虹ながる与謝の細江の朝のさざ波 | 寛 |
|||||||||||
人おして回旋橋のひらく時くろ雲うごく天の橋立 | 晶子 |
与謝野夫妻昭和5年5月天橋立にて詠める歌の自筆を拡大す
与謝野寛・晶子夫妻は、寛の父礼厳が加悦出身ということもあり、天橋立にたびたび足を運ばれました。 昭和5年5月、丹後に8泊のうち天橋立に2泊して、寛45首、晶子60首の短歌を遺されています。 昭和10年寛逝去後、傷心の晶子が天橋立を訪れたのが昭和15年でして、帰京後、発病し、以後旅をすることもなく昭和17年逝去されました。 最後の吟遊の旅が当地、天橋立でした。夫妻が多くの歌を遺されたこの天橋立に歌碑を建立することが私たちの責務ではないかと考え、多くの天橋立を愛する人、与謝野夫妻に思いを寄せる人達のご協力の下に、ここに歌碑を建立する運びとなりました。 寛・晶子夫妻の歌をよみ、お二人を偲んでいただければ嬉しく存じます。 |
39歳の時、京都から宮津見性の住職・竹溪を訪ね、3年余り、宮津に身をおいた。 |
天橋立神社の所在する場所は天橋立の濃松(あつまつ)と呼ぶ地点に当たる。近くに真水がわくことからも磯清水と呼ばれる井戸があり、磯清水神社とも言われて来た。 当社の祭神は、明治時代の京都府神社明細帳では、伊弉諾冊(いざなぎ)命とされ、江戸時代の地誌類では、かつては本殿の左右に祠があり、本殿の祭神を豊受大神、向って左は大川大明神、右は八大龍王(海神)とする。 当社は智恩寺境内にあったものを天橋立内のこの地に移したという説がある。確かに江戸時代前期の天橋立図屏風には、当地に社殿風の建物が描かれるとともに智恩寺境内に鳥居が描かれていて社殿が存在する。 一方、南北朝期の「慕帰絵詞(ぼさえことば)」に描かれた天橋立の図や雪舟筆「天橋立図」には、すでに当地に社殿が描かれており、江戸時代中期の「与謝之大絵図」〔享保9年(1724年)〕や「丹後国天橋立之図」〔享保11年(1726年)〕には当地に「橋立明神」の文字も記されているため、中世半ば以降は当地に鎮座すると考えられている。 いずれにしても、天橋立は江戸時代には智恩寺の境内地(寺領)であり、天橋立神社も智恩寺に属する神社でした。現在の社殿は明治45年(1907年)の再建です。 当社の参道は社殿から南西方向に進み、阿蘇海に達する地点に石造の鳥居が立つ。鳥居の石材は花崗岩で形態は明神型、『吉津村誌』によると慶安4年(1651年)の造立、願主は智恩寺住持南宗ほかの銘が記されているが、鳥居表面の風化が著しく、現在これを読むことはできない。
宮津市教育委員会 |
この井戸「磯清水」は、四面海水の中にありながら、少しも塩味を含んでいないところから、古来不思議な名水として喧伝されている。 そのむかし、和泉式部も 「橋立の松の下なる磯清水都なりせば君も汲ままし」 と詠ったことが伝えられているし、俳句にも「一口は げに千金の磯清水」などともあることから、橋立に遊ぶ人びとには永く珍重されてきたことが明らかである。 延宝6年(1678年)、時の宮津城主永井尚長は、弘文院学士林春斎の撰文を得たので、ここに「磯清水記」を刻んで建碑した。この刻文には |
丹後国天橋立之磯辺有井池清水涌出、蓋有海中而別有一脈之源乎、古来以為勝区呼曰磯清水、 云々 |
とある。 湧き出る清水は今も絶えることなく、橋立を訪ずれる多くの人々に親しまれ、昭和60年には環境庁認定「名水百選」の一つとして、認定を受けている。
宮津市教育委員会 |
天正8年(1580年)細川藤孝は、丹後を平定。 天正9年(1581年)細川藤孝・忠興父子は、明智光秀や茶人の津田宗及、連歌師の里村紹巴らを招待して、ここ天橋立で茶会を開催。翌年、本能寺の変が起き、この茶会は明智光秀の娘・ガラシャ(玉)にとって、父との最後の別れの場となったかもしれない。
大河ドラマ「麒麟がくる」宮津市推進協議会 |
元禄6年(1693年)、杉風、曽良の勧めに応じて「水辺のほととぎす」を詠んだ句。 |
芭蕉が天橋立に遊んだ証拠もなく、橋立を詠んだ確かな句もないが、宮津の俳句を楽しむ人々は、芭蕉の塚がないのを残念に思い、この句を選び、江戸時代、1767年に文殊堂境内に句碑を建立。その後、ここに移設。 |
この天橋立の内海でかつて大量に獲れた「金樽いわし」は、別名「金太郎いわし」とも呼ばれ、その歴史も非常に古く、一千年以上も昔から丹後の名産として名高いという。したがってこの鰯にちなむ伝承も多く、古くは平安時代の中頃、丹後の国司藤原保昌が金の樽に酒を入れ、内海で酒盛をしていたところ樽が海に落ち、それを漁師が網ですくおうとしたが樽は見つからず、かわりに金色に輝く鰯が大量に獲れたという。同様の伝承で、酒盛りをしていたのは、時に源平会戦のころの平忠房であるとか、江戸時代後期の宮津藩主の本庄氏であるとも伝えられている。 とにかくこの金樽いわしは美味であったといい、評論家として名高い小林秀雄氏も宮津来遊の折り、宿の朝食に出された金樽いわしのオイルサーデンのおいしさに、「ひよっとすると、これは世界一のサーディンではあるまいか」(『考えるヒント』)と、感動したというエピソードもある。 |
宮津市教育委員会 |