祭神として、崇道天皇(早良親王)、吉備真備、橘逸勢をはじめ、十三柱の神霊を祀る。 この地には、はじめ付近住民の氏寺として創建された上出雲寺があっが、平安京遷都(794年)に際し、桓武天皇の勅願により王城守護の神として、奈良時代・平安時代初期に不運のうちに亡くなった八柱の神霊が祀られたといわれ、その後、明治天皇の御願により祭神五社が増祀され、現在に至っている。 平安時代には、天変地異や疫病流行は怨霊のたたりであるとする御霊信仰が盛んで、怨霊をなだめるための御霊会が度々行われ、疫病除けの霊社として名を広めた。朝廷から庶民に至るまで広く信仰を集めたが、特に御所の守護神として皇室の崇敬が厚く、神輿や牛車等、皇室からの寄付品を多数蔵している。 本殿は、享保18年(1733年)に下賜された賢所御殿を復元したものといわれている。 また、境内は「御霊の杜」と呼ばれ、応仁元年(1467年)正月18日に畠山政長と畠山義就(よしなり)の合戦が行われ、応仁の乱の発端となった場所としても知られている。
京都市 |
文正2年(1467年)正月18日早朝、この付近すなわち御霊の森(上御霊神社境内)での合戦から「応仁の乱」は始まった。前日の17日深夜、畠山政長は自ら屋敷を焼いて、一族郎党や奈良筒井氏の成身院光宣らと兵約2,000を率いてここに布陣した。 翌18日早朝、畠山政長と畠山家の家督を激しく争っていた畠山義就が兵3,000余で攻撃をしかけ、18日は終日激しい戦いが続いた。義就方には朝倉考景、ついで山名持豊(宗全)の命を受けた山名政豊が加勢した。しかし政長方には頼みの細川勝元がこの時点では動かず、まる一日の合戦の結果、政長は持ちこたえられず退去した。これが「応仁の乱」の最初の合戦である。 その年の3月、年号は「文正」から「応仁」と改まり、細川氏・山名氏の両陣営はそれぞれに味方を集めて戦時体制をかため、5月から上京を中心に、将軍・足利義政の後継者争いも絡み合う、東西両軍の全面的な戦に入った。この戦は京の都を疲弊させ、室町幕府の権威を失墜させたが、厭戦の風潮の中、細川・山名両氏の間に和睦が成立し、文明7年(1477年)、11年間に渡る大乱はようやく収束をみた。 なお、宗全の墓は南禅寺の真乗院にある。
京都市 |
松尾芭蕉は元禄3年(1690年)12月に凡兆・去来・乙州・史邦ら門人を伴なひ當社に参詣し別當家(宮司宅)に半日を打寛ぎ「年忘歌仙」を奉納した 「俳諧八重桜集」には當社を称へた数多くの歌仙で奉納発句が登載されてゐる |
洛御霊法印興行 |
半日は神を友にや年わすれ |
是自筆の句・前書也。 |
上御霊のみやしろに詣でてよめる |
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千早振る神のみめぐみふかくして八十ぢに満つる幸を得にけり |
昭和31年10月4日 新村出 |
広辞苑の編者として著名な新村出博士(1876〜1967)は言語学のみならず南蛮学吉利支丹研究等にも多大な業績を残され、広く我が国の学術の振興に貢献されました。博士は大正12年より終生、当社氏子の小山中溝町に住まわれ、右の歌は満80歳の誕生日に参拝の折、献詠されたものであります。尚博士はこの年11月に文化勲章を受章されました。 |
上御靈社の樓門を入り本社を拜し、かたへの茶店にいこふ。 |