ふくち山出て |
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長田野越えて |
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駒をはやめて |
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亀山へ |
昭和49年(1974年)11月3日、福知山駅開業70周年記念に福知山市建立。 |
天守閣の石垣は、「野面積み」「乱石積み」などと呼ばれる技法で未加工の自然石が積み上げられています。また、五輪塔や宝篋印塔を始め、石仏、石臼、灯籠などの石造物が大量に石材として利用され、これらは転用石と呼ばれています。転用石の大量の使用例は、福知山城や大和郡山城に見られます。再建時の発掘調査で500個余りが確認されています。 |
この建物は福知山城の銅門の脇(市役所の東)にあった番所で、城内の建築物として当時の面影をしのばせるものです。 大正時代のはじめに天守台(小天守台)に移築され更に昭和59年天守閣再建に伴いこの場所に移築されたものです。 |
福知山城は天正年間明智光秀の縄張りと伝えられ慶長年間にいたり近世城郭として完成されました。 明治の廃城後わずかに残された本丸に多くの皆様の協力により大天守閣続櫓小天守閣が再建されました。 城郭研究の権威東京工業大学名誉教授藤岡通夫工学博士の復元設計による二重櫓に入母屋の大屋根をかけその上に小望楼をのせた姿は初期天守閣の様式をよく表しています。 |
天正3年(1575年)6月、織田信長は本格的な丹波攻略を開始し、丹波国船井郡の土豪小畠氏に対して、船井郡の内藤氏・桑田郡の宇津氏討伐の協力を求めた。信長は光秀を丹波に遣わすことを表明し、同年10月から光秀による黒井城攻めが開始された。 同年11月に光秀は荻野直正の拠点黒井城を包囲し、丹波国人衆の過半が光秀方に与し、丹波攻略は順調に推移したように見えたが、天正4年(1576年)1月、突然多紀郡八上城主波多野秀治が離反し、光秀は敗走。第一次攻略戦は失敗に終わる。 第一次丹波攻め失敗の後、二次丹波攻めは天正5年(1577年)10月頃から本格的に再開した。攻略対象の第一は、波多野秀治。同年11月には多紀郡の城11か所を攻め落とし、天正6年(1578年)6月には滝川一益らの助力を得て、荒木氏綱を降伏させた。光秀は丹羽長秀や滝川一益ら織田家武将の支援をうけつつ、攻略戦を展開した。 |
慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原の戦いで西軍が敗北。細川忠興は福知山城を攻め、小野木重勝は福知山城開城。 慶長5年(1600年)、有馬豊氏は福知山6万石に加増移封。初代福知山藩主となる。 元和7年(1621年)3月18日、有馬豊氏は筑後国久留米に転封。 慶安2年(1649年)2月18日、松平忠房が4万5000石で福知山に加増移封された。 寛文9年(1669年)6月8日、6万5900石で島原に加増移封された。土浦藩から朽木稙昌が3万2000石で入る。 |
光秀シアターで光秀最後の戦い「山崎の戦い」を基にした「天涯の刃〜我、乱世を翔り〜」(16分)と福知山光秀ミュージアムで上映していた「丹波攻略戦の映像「我魂、丹波を翔る〜光秀の丹波攻略と福知山〜」(5分)上映。 平成29年(2017年)4月6日、福知山城は「続日本100名城」に選定された。 |
平成30年(2018年)11月24日・25日、第31期竜王戦七番勝負第4局が福知山城で行われ、広瀬章人八段が羽生善治竜王に勝利した。 第31期竜王戦は第7局で広瀬章人八段が羽生善治竜王に勝利し、広瀬章人八段が竜王位を奪取。 |