2012年京 都

永観堂〜与謝野晶子の歌碑〜

京都市左京区永観堂町に永観堂(HP)がある。


永観堂総門


貞観5年(863年)、創建。

正式名称は聖衆来迎山無量寿院禅林寺。

 中興の祖永観(ようかん)律師(1033〜1111)にちなみ、「永観堂」と呼ばれている。

浄土宗西山禅林寺派総本山である。

多宝塔から京都市街を見下ろす。


唐門(勅使門)


阿弥陀堂


慶長2年(1597年)、大阪四天王寺に曼荼羅堂として建立。

慶長12年(1607年)、豊臣秀頼の命により移築され阿弥陀堂とした。

本尊はみかえり阿弥陀像。

永保2年(1082年)2月15日未明、念仏を唱えながら本堂を歩く修行をしていた永観の前に本尊の阿弥陀如来が一緒に加わった。夢ではないかと立ち止まる永観に阿弥陀如来は後ろを振り返り「永観、遅し」と発したと伝えられる。

阿弥陀堂の下に獅子門句碑が31基ある。

第一世 松尾芭蕉


古池や蛙飛込む水の音

放生池


与謝野晶子の歌碑があった。


秋を三人椎の実なげし鯉やいづこ池の朝かぜ手と手つめたき

 明治33年(1900年)11月5日、晶子は山川登美子と共に与謝野鉄幹に伴われてここ永観堂に紅葉を賞でた。この場面は晶子をモデルとした作品に必ず出て来る。晶子と登美子とはそれぞれに若い師鉄幹に思いを寄せていたからである。

 翌春晶子は鉄幹と共に再びここを訪れたが、登美子の姿はない。登美子は義理人情のしがらみの中で郷里の男と結婚せざるを得なくなり、恋も文学も茫々の彼方へ忘れ去ろうとした。

 早春の一日、遠く若狭へ去った登美子を思い出して時を過したのがこの歌の趣である。この歌は『みだれ髪』の中にある。いわばこゝは晶子の情熱の歌人としての出発点である。

   1977年5月29日

入江春行

山川登美子は小浜の人。

明沿42年(1909年)4月15日、31才で永眠。

昭和42年(1967年)11月12日、高野素十は永観堂に吟行。

   同十二日 永観堂 芹吟行

残菊の或は花を重ねもし

『芹』

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