2021年京 都

智恩寺〜三文殊〜
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JR山陰本線京都駅「特急きのさき5号」


福知山駅へ。

福知山城


京都丹後鉄道宮福線福知山駅「特急たんごリレー3号」


天橋立駅下車。

宮津市字文珠に智恩寺がある。


謡曲「九世戸」と智恩寺

 九世戸(くせのと)は、天橋立と智恩寺のある半島との海峡を言ったが、中世には智恩寺の異称でもあった。謡曲「九世戸」は同寺に伝承されてきた「龍燈・天燈」の神事で、現在も「出船祭」として行われている祭りを中心に脚色した初番物です。

 天皇の臣下が九世戸に参拝し、美しい景色に見とれていると、老若二人の漁夫が現れる。老人は九世戸の地名の由来や縁起などを説明し「本尊の文殊菩薩に仕える者で、今夜は神事が行われる」と教えて消える。

 夜が更けると、月下に天女が天龍燈を持って降臨し、海上から龍神が龍燈を持って現れ、松の木に捧げると、光は一つになって天地を照らす。龍神は神通力で飛び回り、豪快に舞を舞う。

謡曲史跡保存会

智恩寺


臨済宗 天橋山 智恩寺

 ここ智恩寺は「知恵の文殊」とよばれ、またこのところの名から「切戸(きれと)の文殊」・「九世戸(くせど)の文殊」とよばれて古くからの信仰の厚いところであった。寺伝によれば、その開創は千余年の昔、延喜年間という。世に三文殊と称するのは、ここ智恩寺に加えて、奈良県桜井市の阿部院・京都市左京区金戒(こんかい)光明寺(あるいは、これに代えて、山形県高畠町大聖寺)の三寺の文殊のことである。

 国指定の特別名勝「天橋立」というのは、海中に、3.6キロメートルにわたって連なる砂嘴(さし)の部分だけではなく、それを展望できる成相寺山麓の「傘松」の地、そしてここ智恩寺の境内地をも含めているのである。

 寺に伝わる古縁起にも、

そもそも、九世戸あまのはしたてと申すは、本尊は一字文殊、鎮守ははしたての明神と申す、本地はおなじ文殊にておわします 云々

と記し、橋立も一体の信仰の地と考えられてきたのである。

 本尊は善財(ぜんざい)童子・優填(うてん)王を従えた文殊騎獅像である。境内には、本堂をはじめ、山門・多宝塔ほか諸堂が並び、寺だけでなく、地方の歴史を語る多数の遺物に接することができる。

宮津市教育委員会

臨済宗妙心寺派の寺である。

多宝塔


 国指定重要文化財(建造物)

智恩寺多宝塔(室町時代)

 上重は円形で亀腹を付け宝形の屋根を載せて相輪を付し、下重は周囲に方形の裳階を付けた形式の塔を多宝塔という。

 本寺多宝塔は、上重の柱等に記される墨書銘によって、丹後国守護代で府中城主延永修理進春信によって建立され、明応10年(1501年)に落成したことが知られる。

 下重には来迎柱が立ち、前方に須弥壇をつくって大日如来が安置されている。来迎壁の背面には造塔の奉行も務めた丹後一宮大聖院の住僧智海により片足を上げた不動明王が描かれており、「八十余歳書之・智海」の署名がある。

 本塔は市内で唯一中世建築遺稿であり、かつ唯一の国指定重要文化財建造物である。丹後地方には残存する古建築が極めて少ないなかで、創建の事情、年代が明らかな本塔は貴重な存在である。

宮津市教育委員会

宝篋印塔


 宮津市指定有形文化財(建造物)

石造宝篋印塔(鎌倉時代)

 この石塔はいつのころからか和泉式部の歌塚と伝えられている。『丹哥府志』によれば、丹後守藤原公基が日置金剛心院において、和泉式部が書捨てた和歌を持ち帰り、なみだの磯(涙が磯)に埋めて鶏塚と呼んだという。その反古の一首が、

  いつしかと待ちける人に一声も聞せる鶏のうき別れかな

 その後明応(1490〜1501)のころ、砂に埋まった塚を掘り出して文珠堂の傍らに建てたのが今の 歌塚であるという。

 彼女が丹後に下って詠んだ歌のいくつかは知られているが、前記の歌が丹後において詠まれたものかは分からない。丹後において各処の和泉式部伝説のあるなかで、これもそのひとつとしてうけとればよい。

 塔は堂々として基礎の格狭間や、塔身の薬研彫の四方仏の種子、笠石四隅の突起等に時代的な特徴がみられる。

宮津市教育委員会

予科練供養塔


塔 文

予科練とは海軍少年飛行兵の称である。予科練の歴史は僅か15年余りに過ぎないが、日支事変・太平洋戦争の全期に亘り厳しい訓練を経て戦いの大空に雄飛する。

戦局利あらず多くの若者が祖国同胞の為と信じ無限の未来を秘めた若い生涯を桜花よりも更に潔く祖国防衛に捧げた。英霊の永久の冥福と世界平和の礎となることを祈念し之を建てる。

天橋立へ。

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