宇治行 夕には殘る寒さや川の音 |
平成6年(1994年)、平等院は「古都京都の文化財」として世界遺産に登録された。 |
「古都京都の文化財」だから外国人の観光客も多いが、藤は日本固有種であるから、何の花か分からない。 |
天喜元年(1053年)、関白藤原頼通によって建立された阿弥陀堂。国宝である。 |
明和元年(1764年)10月19日、多賀庵風律は田子の浦の帰途、平等院に参詣している。 |
平等院にまいる爰ハ宇治の大臣との作りみかゝせ給ひて鳳凰堂の鳥もつはさひろけてよそほひしたり木々のもみちも落葉していにしへの彩色あらハに仏の御皃もまはゆきまてこまやかなれはいかなる罪科も消なんとういはハ珠数すりて念し入たり |
大正13年(1924年)10月14日、与謝野晶子は平等院を訪れている。 |
宇治殿の鳳凰堂の簀子にてながむる山を霧流れ行く 極楽の雲とむかしもおもひけん鳳凰堂の朱のうつる池
『心の遠景』 |
宇治平等院 三句 雲のゆききも栄華のあとの水ひかる 春風の扉ひらけば南無阿弥陀仏 うららかな鐘を撞かうよ
『草木塔』(柿の葉) |
昭和11年(1936年)3月22日、山頭火は宇治の平等院を訪れた。 |
三月廿二日 晴。 もつたいなや、けふも朝湯朝酒。 十時出立、宇治へ。―― 平等院、うらゝかな栄華の跡。 汽車で木津まで行つて泊る。 |
『山頭火句碑集』(防府山頭火研究会)によれば、15番目の山頭火句碑である。 |
昭和14年(1939年)1月16日、星野立子は平等院を訪れている。 |
宇治は随分寒かつた。鳳凰堂の扇の芝。静かな池。 夕方につきたる宇治の枯木よし
「続玉藻俳話」 |
昭和25年(1950年)、水原秋桜子は平等院鳳凰堂を訪れている。 |
平等院 扇の芝青むを過ぎて人知らず 鳳凰堂 三句 繊(ほそ)き靴脱ぎそろへあり初夏の蝶 弥陀の前やがて舞ひ去る初夏の蝶 台壇に濁世の銭と丹の躑躅
『残鐘』 |
昭和25年(1950年)、阿波野青畝は平等院を訪ねた。 |
水ゆれて鳳凰堂へ蛇の首
『春の鳶 改訂版』 |
梅雨が上がると緑の宇治の山々はふくらみを増して迫ってきた。平等院を訪ねてあの静かな鏡のような池を一周する私は、池を隔てて赤い鳳凰堂を美しく眺めやる位置に杖をとどめた。池の岸べに少し藻のひろがりがあって、そのところだけ堂の倒影はうつらないが、美観には差しさわらなかった。 ふいと見たら蛇の首が動いている。けんめいに泳いで鳳凰堂にたどり着こうとする。池全体は静かで波がないのだが、注目する鋭い目には蛇の首のほとりに波が生まれる。すぐ消える波であるが、力強く早くゆれるのである。ハッと驚きを感じた私は、ただ蛇の首しか目につかない気持であった。ルナールは蛇が長過ぎると書いているけれど、私は短い鎌首だけだったと思う。 |
昭和32年(1957年)、高野素十は平等院を訪れている。 |
宇治平等院 二句 落慶に十人許り茶摘み女も
『芹』 |
治承4年(1180年)5月26日、源頼政は宇治で平氏に敗れ自害した。享年77。 寿永3年(1184年)1月20日、源頼朝は範頼・義経に義仲追討を命じ、範頼が瀬田を、義経が宇治を攻撃した。 |
佐々木四郎が給はったる御馬は、黒栗毛なる馬の、きはめてふとうたくましゐが、馬をも人をもあたりをはらって食ひければ、いけずきと付けられたり。八寸の馬とぞ聞こへし。梶原が給はったるするすみも、きはめてふとうたくましきが、まことに黒かりければ、するすみと付けられたり。いづれも劣らぬ名馬なり。
『平家物語』(巻第九) |