小倉百人一首は、古今集から続後撰集に至る10種の歌集から撰歌されています。ここには、古今集の次に撰定された後撰集から撰ばれた7首の歌を紹介しています。
後撰集は、「梨壺の五人」と称される大中臣能宣・清原元輔・源順・紀時文・坂上望城を撰者とし、天暦5年(951年)に村上天皇の勅命を受け、昭陽舎(梨壺)に撰和歌所が置かれました。天暦9年前後に成立し、約1,400首の歌からなります。歌の配列順などは古今集を基準にしていますが、古今集に比べ、日常的でくだけた感があります。
恋の贈答歌が多く、藤原氏を中心とする公達(きんだち)たち、当時の社交界の花形たちが女房(宮中に勤める女性)たちと様々に交わした恋の語らいや逸話が多彩に記されています。
小倉百人一首文芸苑 |
清原元輔は清原深養父の孫で、娘に清少納言がいる。三十六歌仙の一人。
天智天皇の歌碑

小倉百人一首第一番
秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ
|
|
わが衣手は 露にぬれつつ
|
滋賀県大津市の近江神宮にも歌碑がある。
刈り取られた稲の見張り小屋で、ただひとりで夜を明かしていると、葺いてある屋根の苫の編み目が粗いので、私の着物はぐっしょりと夜露でぬれ続けていることよ。
|
蝉丸の歌碑

小倉百人一首第十番
これやこの 行くも帰るも 別れては
|
|
知るも知らぬも あふ坂の関
|
滋賀県大津市の逢坂の関記念公園、関蝉丸神社下社にも歌碑がある。
これが都(京都)から東へ下っていく人も、都へ帰ってくる人も、顔見知りの人もそうでない人も逢っては別れ、別れては逢うというこの名の通りの逢坂の関なのだなあ。
|
陽成院の歌碑

小倉百人一首第十三番
つくばねの 峰より落つる みなの川
|
|
こひぞつもりて 淵となりぬる
|
陽成院は第57代の天皇。清和天皇の第1皇子。母は尊称皇太后藤原高子。外伯父の藤原基経が関白として政務をとった。元慶8年(884年)廃された。
|
筑波山の峰から流れ落ちる男女川(みなのがわ)は、流れ行くとともに水量が増して淵(深み)となるように、私の恋心も、時とともに思いは深まり、今は淵のように深い恋になってしまった。
|
元良親王の歌碑

小倉百人一首第二十番
わびぬれば 今はた同じ 難波なる
|
|
みをつくしても あはむとぞ思ふ
|
元良親王は陽成天皇の第1皇子。
うわさが立ち、逢うこともままならない今は、もはや身を捨てたのも同じこと。それならばいっそ難波潟の「みをつくし」ではありませんが、この身を捨ててもあなたにお逢いしたい。
|
三条右大臣の歌碑

小倉百人一首第二十五番
名にしおはば 逢坂山の さねかづら
|
|
人に知られで くるよしもがな
|
三条右大臣は藤原定方。逢坂の関記念公園にも歌碑がある。
逢坂山のさねかずらが、あなたに逢って寝るという意味を暗示しているなら、そのさねかずらの蔓をくるくる手繰るように他人にしられず、あなたのもとへ来る方法がないものか。
|
文屋朝康の歌碑

小倉百人一首第三十七番
白露に 風の吹きしく 秋の野は
|
|
つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける
|
文屋朝康は文屋康秀の子。
葉の上に降りた美しい白露に、しきりと風が吹きすさぶ秋の野。風で散ってゆく白露はまるで一本の糸で貫き止まっていない玉を、この秋の野に散りばめたようだなあ。
|
参議等の歌碑

小倉百人一首第三十九番
浅茅生の 小野の篠原 しのぶれど
|
|
あまりてなどか 人の恋しき
|
参議等は源等。嵯峨天皇の曾孫。中納言源希の子。
浅茅が生えている小野の篠原ではないが、この心を耐え忍んでも、耐えきれぬほどにどうしてこんなにも、あなたのことが恋しくてたまらないのだろうか。
|
嵯峨嵐山駅へ。
2019年〜京 都〜に戻る
