2022年京 都

伏見稲荷大社〜東丸神社〜
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JR奈良線京都駅


稲荷駅下車。

京都市伏見区深草薮之内町に伏見稲荷大社(HP)がある。

鳥 居


楼 門


伏見稲荷大社楼門

 この楼門は、天正16年(1588年)6月に豊臣秀吉が稲荷大神に母大政所の病気平癒を祈願し、本復御礼の奏加米をもって翌年再興された。その後、元禄7年(1694年)、社頭拡張時に西方へ5間移築し、前方の石段を造り、その折それまで築地塀であった南・北回廊が絵馬掛所として新造された。再建後明治14年(1881年)までの間、屋根葺材は板葺であったが檜皮葺に変更された。天正時に再興されてから385年後の昭和48年(1973年)に解体修理を行った際に当時の墨書が発見された。此れにより伏見稲荷大社の社殿のなかでは本殿に次いで古い建物であると確認された。

 廻廊は、彫刻部材等から見て天保期頃のものと考えられ、以後の修理は楼門と同時期に行われている。屋根葺材は楼門と同時期に檜皮葺となった。

京都市

重要文化財である。

荷田春満旧宅


東丸神社


東丸神社由緒略記

祭 神 荷田東丸命(かだあずままろのみこと)

祭神荷田東丸(春満)大人(うし)は、寛文9年(1669年)正月3日この地に誕生、本名は羽倉信盛と申し幼少より歌道並に書道に秀れ、長じては国史、律令、古文古歌、さては諸家の記伝にいたるまで独学にて博く通じ、殊に内容の乏しい形式的な堂上歌道を打破して自由な本来の姿に立返らしめんとしました。元禄10年29才の時から妙法院宮に歌道の師として進講されましたが、大人は当時幕府が朱子学を政治の指導理念としていたため、書を学ぶ者皆極端に漢風にのみ走るをみて、古学廃絶の危機にあるを憂え、古学復興こそ急務であるとして

   われならでかけのたれをのたれかよにあかつきつくるこえゑをまつらむ

の一首をのこして、文化の中心たる江戸に下向されました。江戸在住の間、大人はあえて師を求めず、日夜独力孜々として研鑽、傍ら門人達に古学を講じましたが、その卓越せる学識は世に聞え高く、享保7年将軍吉宗は、大人の名声を聞きつたえ幕府の蔵書閲覧をことごとくたのみましたので、大人はその間違いなどを訂正し不審の点は細かく説明されました。その後も吉宗将軍より建議並に百般の書籍の推薦検閲の特権を与えられ、偽本の跡を絶たれました。享保8年錦衣帰郷された後も、日夜研究著述を旨とされる傍ら賀茂真淵など門人多数に講義されておりましたが、古学普及のためその宿願たる倭学校を東山の地に創建せんとして幕府に提出すべく「請創造倭学校啓」を著されましたが志もむなしく、享保15年病を得、ついに元文元年7月2日、68才をもって帰天せられました。大人病むの報一たび吉宗将軍の許に達するや、将軍より度々秘薬を贈られました。東丸大人には著書が夥しくありましたが、そのうち研究の未だ足らざるものを残すは却って後世に災いありと学者的良心から、その臨終に際し待床の童子に命じて手近なものは焼かしめられましたが、今なお神祇道、日本史、律令、格式、有職古実、歌学及び語釈に関する遺著及び遺墨が多数残っています。されば大人の学徳を偲ぶ有志の人々相寄って荷田旧邸の一部であるこの地に社殿を創建し爾来、「学問守護」の神としてひろく崇敬されることとなりました。

   東丸大人と赤穂義士

東丸大人の逸話のうちで、江戸在住中多数の門人に古典古学を講じておられました。吉良上野介もまた教えを受けた一人でありましたが、大人(通称羽倉齋)は彼の日頃の汚行を見聞するに及んで教えることをやめられました。たまたま元禄15年に以前から親交のあった大石良雄の訪問をうけ、その後堀部弥兵衛同安兵衛、大高源吾等とも交わり、吉良邸の見取図を作り大高に与え、12月14日吉良邸に茶会のあることを探って赤穂浪士を援助したこともありました。

 なお当社は御祭神の邸跡の一部に建っていますので伏見稲荷大社と境内が隣接していますが別の神社であることを御承知ください。

JR奈良線稲荷駅


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