室町時代以降、此地に法衣業者が集って棚賣を始めやがて町名となって現在に及んだ。殊に、弘冶年間千切屋の祖が此所に店舗を開きしより其の分家別家一門次第に繁栄し此町を中心として近辺に同業を営んだ者百余軒の多きに上ったという。 三條、四條の地は平安中期以降常に商業経済の中心地であり所謂下右京の中枢に位し加ふるに室町末期にはこの周辺に巨刹の碁布せし事が衣棚を此地に発生せしめた要因と考へられる。天正年間秀吉の市街整備にあたり大寺院の殆んどが遠所に移轉されたるにもかかはらず業者よく結束してその傳統的営業を續け全国的に斯界の獨占的地位を保った。中世に発生したる座が權門社寺の保護下に利權を擴大したるに對し衣座は利權擁護の特權の見るべきものなきにかゝはらずよく明治初年に及んだ事は経済史上産業史蹟として重考すべきである。
京都史蹟會 |
洛中の |
五色の辻に |
家居して |
み祖の業を |
いまにつたふる |