宝亀9年(778年)、興福寺の僧賢心(後に延鎮と改名)は、音羽山で行叡居士に出会った。賢心は行叡が残していった霊木に千手観音像を刻み、行叡の旧庵に安置した。 宝亀11年(780年)、坂上田村麻呂は鹿を捕えようとして音羽山に入り、修行中の賢心に出会った。田村麻呂は殺生の罪を説かれ、観音に帰依して自邸を本堂として寄進したという。 |
この塔は、当山ご本尊観世音菩薩の御霊験によって嵯峨天皇の皇子ご生誕あり、承和14年(847年)葛井(かどい)親王が勅命を奉じて創建されたと伝える。 現在の塔は寛永9年(1632年)の再建で、日本最大級の規模をもち、三間四方、高さ29.7メートルに達す。昭和62年(1987年)文化庁の助成をえ、京都府教育委員会に委託して、解体修理、彩色復元の落慶をみた。 一重内陣の中央に大日如来坐像を安置し、四面の壁に真言八祖像、四天丸柱に密教的な仏画を描き、柱は雲天竜、天井その他は飛天・華型幾何文様が極彩色で全面荘厳されている。 なお今回の修理で全重を総丹塗りに戻し、他塔にその類例を見ない、各重の丸桁(がんぎょう)・台輪・長押などの各種極彩色文様をすべて寛永の昔に復元した。 一重で見ると、軒下の丸桁の両端は「摩竭魚(まかつぎょ)」中央は「金剛盤に宝珠」中段の台輪の両端は「出八双卍崩(ではつそうまんじくずし)円竜」中帯は「向い蝶」下方の長押の両端は「入(いり)八双若芽唐草(わかめからくさ)」中帯は「四弁花羯磨繋(かつまつなぎ)」の文様になっている。
北法相宗 清水寺 |
寛文2年(1661年)3月、西山宗因は清水寺に参詣している。 |
清水にまうでゝ 毛せんを地主の桜にしくはなし |
寛延3年(1750年)8月16日、白井鳥酔は清水寺を訪れている。 |
清水寺堂上 |
仝十六日夕 |
十六夜や三筋の瀧はへりもせす |
明和8年(1771年)、加舎白雄は宮本虎杖を伴い清水寺を訪れている。 |
志願有て通夜籠せし折しも庇かる清水寺にて、 滝の音妙に桜の深夜哉
「春秋菴白尾居士記行」 |
「清水の舞台」といわれ、本堂(国宝)の付属建築物で、平安時代の昔から構架されてきた。 現在の舞台組みは寛永10年(1633年)徳川三代将軍家光の寄進による再建のままで、欄干親柱の金銅製宝珠に「寛永拾歳」と銘刻されている。 本堂外陣(げじん)(礼堂(らいどう))の廊下から南の谷へ間口約18メートル、 奥行約10メートル、に長さ5.5メートル、幅30〜60センチ、厚さ10センチ、の檜板を敷きつめ檜舞台として張り出し(舞台板は20〜30年毎に張り替える)、床下は巨大な欅の柱に貫(ぬき)を縦横に通し楔でとめて頑強に支え、いわゆる舞台造りになっている。建築学的には懸(かけ)造りといい、礼堂の下から長短の欅柱で構築されており、観音様のお住まいとされる南インドの嶮峻な補陀洛(ポトラガ)山中の宝殿に実に似つかわしい。 最南端は錦雲渓の急崖に13メートル強の高さで建ち、「清水の舞台から飛び下りるつもりで…」の諺を生んできた。 本来は本堂に奉祀する御本尊千手観音様に向って舞楽を奉納する、 名実共に「舞台」で 現に重要な法要には舞楽、芸能などを奉納している。東、西両側の翼廊は、その楽人たちの詰める楽舎である。 この舞台からの、錦雲渓をへだてた向山の子安の塔と阿弥陀ヶ峰の眺めや京都市街西山の遠望は、まことに見事である。 左下方には「清水寺」の寺名を由来する音羽の滝がこんこんと3筋の清水を流し、その上手には同じく舞台造りで奥の院(重要文化財)が建つ。 |
清水にて 瀧津瀬もちらぬ音羽の櫻かな
『殘菊集 二』(都のしらへ) |
8世紀末頃、日高見国胆沢(岩手県水沢市地方)を本拠とした蝦夷の首領・阿弖流為(アテルイ)は中央政府の数次に亘る侵略に対し十数年に及ぶ奮闘も空しく、遂に坂上田村麻呂の軍門に降り同胞の母礼(モレ)と共に京都に連行された。 田村麻呂は敵将ながらアテルイ・モレの武勇、人物を惜しみ政府に助命嘆願したが容れられず、アテルイ・モレ両雄は802年河内国で処刑された。 この史実に鑑み、田村麻呂開基の清水寺境内にアテルイ・モレ顕彰碑を建立す。 |
明治29年(1896年)、高浜虚子は清水寺を訪れている。 |
清水寺 音羽滝 薫風に昼のともし火滝の前 酢うる家に草鞋請ひ得つ五月雨 石置いて衣沈めたる清水かな
『年代順虚子俳句全集』 |
昭和45年(1970年)4月13日、高浜年尾は西国札所巡りで清水寺へ。 |
四月十三日 西国札所巡り 京都 ホテル東園 春風や子安の塔をまなかひに どこ訪ふも拝覧料や京の春 |