晶子 四條橋 おしろい厚き 舞姫の 額さゝやかに 打つ夕あられ 寛 南座の繪看板を 舞姫と日暮れて 見るも京のならはし |
与謝野夫妻が歌に詠まれた南座はこの北座の向い側に在り四条橋はこの橋である。 |
与謝野晶子生誕百周年記念歌碑第15号。平成2年(1990年)5月4日、みだれ髪の会寄贈。 |
四条大橋は、永治2年(1142年)に初めて架設されたと伝えられており、在昔、祇園四条橋と号されていた。 その後たびたび鴨川の出水のため破損、流失し、幾度となく改造、架橋を繰り返している。安政4年(1857年)の鴨川浚渫とあわせ、祇園氏子の寄付を集め木造石柱の大橋を架橋したが、明治6年(1873年)8月に破損した。このとき祇園新地などから、京都府知事長谷信篤に新橋架設が請願され、明治7年(1874年)4月下京第十五区(弥栄学区)の区費をもって、伏水鉄具製工場で製作された鉄造新橋が架けられた。 4月1日の渡初式には、祇園新地の芸妓も多数参加し、華をそえた。 この鉄橋、延長54間 (約98m)、幅員4間(約7m)で、その額は当時の価格で16,830円にのぼった。 また、当時まだどこにも見られなかった鉄の橋であったため、くろがね橋とも呼ばれた。 明治44年(1911年)京都市営電気鉄道が四条橋に布設されることになり、この橋は電車併用橋の鉄筋コンクリートアーチ橋として生まれ変わることとなった。 |