2019年京 都

二尊院〜碑巡り〜
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京都市右京区嵯峨二尊院門前長神町に二尊院(HP)がある。

二尊院総門


二尊院

 小倉山と号し、天台宗山門派(延暦寺)に属する。承和8年(841年)嵯峨天皇の勅願によって慈覚大師が創立した。本尊に釈迦如来、阿弥陀如来(重要文化財)の二尊を祀る。永く荒れていたのを法然上人の高弟湛空が再興した。

 境内は楓樹が多く、本堂の後の山は、百人一首

 小倉山峯のもみじ葉心あらば

   今一度の御幸またなん   忠平

の歌で名高い小倉山で昔から紅葉の名所として知られている。

 また、大堰川開墾者角倉了以や、儒者伊藤仁斎、その子東涯などの墓がある。定家卿が百人一首を撰んだ時雨亭は、この小倉山の山腹にあったともいわれる。

京都市

拝観料は500円。

西行法師庵の跡


我が物と秋の梢を思ふかな小倉の里に家居せしより

参 道


参道の右手に丸山海道・佳子の夫妻句碑があった。


春深し佛の指の置きところ
   海道

萩咲かす二尊に触れて来し風に
   佳子

丸山海道は鈴鹿野風呂の二男。本名尚(ひさし)

昭和46年(1971年)、野風呂逝去後「京鹿子」主宰。

平成11年(1999年)4月30日、没。

参道の石段


明治37年(1904年)、高浜虚子は二尊院を訪れている。

二尊院。

 苔青く紅葉遅しや二尊院


大正11年(1922年)12月7日、高浜虚子は二尊院を訪れる。

散り紅葉こゝも掃き居る二尊院

      十二月七日、それから山傳ひに二尊院の境内に出る。


石段を上ると、高浜虚子の句碑があった。


散紅葉こゝも掃きゐる二尊院

昭和23年(1948年)10月、京都ホトトギス會建立。

 京都北嵯峨二尊院の參道を辿って、本坊に登る松繩手の石段の左側にこの碑はある。いかにも閑寂な、ここらしい場所に寂然と、しかもどっしりと建って居る。高さ六尺、幅二尺の御影石角碑で、昭和二十四年十一月三日虚子翁臨席のもとに除幕式が行われた。私はこの地を訪うて折柄の雨中、洋傘を碑頭にかざし、独り黙然と手拓三昧に浸った。


「二十四年」は「二十三年」の誤り。

十一月三日二尊院句碑除幕式。天龍寺にて記念句会。法筐院泊。

 参会の人に時雨は木の毒な


 十一月三日。二尊院に出来た父の句碑の除幕式の日で
ある。初子さんも一緒に出かけられたが少し時雨れかゝ
つて来たので除幕式が終つてあと早くおかへしする。

  除幕式かくて終了薄紅葉

  両三度きゝし話よ紅葉寺

  薄紅葉美しき時句碑建ちし

 天龍寺での句会は大雨の中をよくも斯んなに大勢集ま
られたと驚ろく参会者であつた。法筐院に泊る。

星野立子・未刊句日記

  虚子の句碑

虚子の句碑嵯峨野に建つといふこともわが京住みのうれしさとせむ

老いてなほ矍鑠として句行脚にゆく君見ればうれしもよ吾(あ)

『形影抄』

昭和40年(1965年)6月、山口誓子は虚子の句碑を見ている。

 私は渡月橋を渡って北上、清涼寺を左へ廻り、左折して二尊院の前に来た。門を入って正面の松山が小倉山である。白い塀が参道の行手に見える。その塀にぶつかるすこし手前、左手に虚子の句碑

   散紅葉ここも掃きゐる二尊院

が立っている。楓の下で暗いくらいだ。

 御影石の角柱。私はこの句碑を写真で見て、大きな碑だと思っていた。実物はそんなに大きくない。二米足らずの樹下句碑だ。

 本堂へも行ってみた。

 「小倉山二尊院」の扁額が懸っている。


勅使門へ。


小倉山


藤袴が咲いていた。


本 堂


二尊院本堂由来

 嵯峨天皇(在位809〜823)の勅願により慈覚大師が承和年間(834〜847)に開山。応仁の乱(1467〜1477)で焼失したが、永正年間(1504〜1520)後奈良天皇が深く帰依し、三條西実隆・公條父子の外護を得て堂宇を再建したのが現本堂のもとである。幾たびかの修復を経て、平成28年9月大修理が完成した。

本堂からみた勅使門


溪仙賛歌


佐々木信綱吉井勇会津八一の歌碑である。

よろずはの春秋かけて
   たまごむる筆のあと
とわにあらんとおもへど   信綱

溪仙の墓をもとめて
   言葉なくわれら
のぼりゆく落葉のみちを   勇

ここにしてきみがゑがける
   みやうわうの
ほのほのすみのいまだかわかず   秋艸道人

冨田溪仙は日本画家。

昭和11年(1936年)7月6日、没。

昭和13年(1938年)10月、吉井勇は土佐から京都に移る。

 『天彦』(嵯峨處處)に「或る日誘はれて嵯峨にあそび、亡き友富田溪仙の墓に詣でたる後厭離庵に到る」とある。

昭和14年(1939年)10月25日、『天彦』上刊。

三条西実隆の歌碑もあった。


   詠終日翫菊

露の間に千世をふ
るとも菊の上に秋
の日かけやみしかか
らまし

三条西実隆(1455−1537)は室町時代の公家。

平成11年(1999年)、日本香道協会建立。

角倉了以の銅像


角倉了以翁(1571−1632)の業績

京の豪商の家に生誕した了以翁は、徳川家康の政策のもと、朱印船貿易の第一船をを出航、以来13年間に渡り、安南国との貿易で蓄財を成した。

その私財を投じて保津川、大堰川開削、富士川疎通、天龍川開削、鴨川疎通、高瀬川開削を行ない、「水運の父」と呼ばれる偉業を成した。墓所二尊院

小倉餡発祥之地


小倉餡発祥の由来

 日本で初めて小豆と砂糖で餡が炊かれたのは平安京が出来て間もなくの820年のことであります。

 当時, このあたり小倉の里に和三郎という菓子職人がいて、亀の子せんべいを作っていましたが809年に空海が中国から持ち帰った小豆の種子を栽培し、それに御所から下賜された砂糖を加え、煮つめて餡を作り、これを毎年御所に献上されました。 その後、この和三郎の努力で洛西を中心に小豆が広く栽培され、江戸時代には茶道の菓子にも用いられ、ハレの料理にも加えられるようになりました。

 和三郎は承和7年2月2日(840年)に亡くなりましたが、その子孫並びに諸国同業の人々がその功績をたたえて小倉中字愛宕ダイショウの里に一社を建て、朝廷の允許を得て、屋号が亀屋和泉でありましたので、和泉明神としてまつられるようになりました。

 その後年月を経て明神の社は兵火に焼かれ、子孫も絶えて、只古老の伝承として伝えられてきましたが、昭和23年3月に嵯峨商工研究会の席上にて藤本達造氏を始め高桑義正、鈴木広政、都田左兵衛(五代)、中路明の諸氏の方々から此の伝承が確認されています。

 今ここに創業二百年を記念してこの碑を建立することにより、小倉餡の歴史を解明する端緒となれば幸いです。

      平成17年3月6日

井筒八ツ橋本舗 六代津田佐兵衛建之

勉強になる。

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