虚子の句碑
金屏に描かん心山聳え
昭和21年(1946年)11月30日、星野立子は成田山光徳寺へ。 |
十一月三十日。高崎・成田山光徳寺。実花、はん、小 蔦、句一歩。 紅き色少しはげたる冬紅葉 襟巻をして羽織着て心やす |
昭和21年(1946年)12月1日、『ホトトギス』六百号記念北関東俳句会の折、高浜虚子は成田山光徳寺に泊まる。 |
もてなしは門辺に焚火炉に榾火 火鉢に手かざすのみにて静かに居 十二月一日 『ホトトギス』六百号記念北関東俳句会。高崎、 宇喜代。成田山泊。 |
句一歩を憶ふ 老友の一人に僧や盆の月 病む僧の成田暑しといふ便り
『雪片』 |
句一歩を悼む 僧死してのこりたるもの一炉かな 炉に涙落として女僧を恋ひ
『野花集』 |
「ホトトギス六百号記念北関東俳句会。高崎、宇喜代。成田山泊」。父は小諸から、私等は鎌倉から。大勢参集。成田山(高崎)にこの句碑が後年、句一歩さんの句碑と並べて建てられた。
『虚子一日一句』(星野立子編) |
高崎の成田山では曾てホトトギス六百号の関東紀年大会があり、私も、みづほ君、憲二郎君等と一緒に参列してこの寺に泊った。虚子先生もこの寺の払塵閑坊に二泊された。大会の終った翌朝、少人数の句会があり、その時の虚子先生の句 金屏に描かん心山聳え 虚子 が今度の句碑となったのであった。 その前、大本山成田山の執事という権勢の地位から一挙転落した句一歩が身を寄せたのはこの寺であり 上州の任侠の炉は心安 句一歩 という句がやはりこんどの句碑になったのであるが俳諧僧としての句一歩の生涯はこの寺が出発点であったのである。 この子弟二つの句碑を建てるということは勿論住職野山和尚の願望であったのであろうが、笙堂和尚も十分に力を入れたものであろう。 句碑除幕の十二月一日は、雲一つない真青な空に太陽がギラギラと輝き、暑いほどの上州冬晴の日であった。
(「芹」昭和35年3月号) |
昭和39年(1964年)、高野素十は成田山光徳寺で虚子の句碑を見ている。 |
小閑あり 高崎成田山に旧友僧松山野山君を訪ひ歓待を受け、虚子句 碑及び「上州の任侠の炉は心安」の句一歩句碑を見る。払塵閑坊は句 一歩流謫当時籠居せし一坊にして、ホトトギス六百号祝賀がこの寺に 催されし時虚子先生の一泊されしところ、諸々の感深し 二句 芍薬の花よ払塵閑坊よ 小盃散乱したり夏座敷
『芹』 |
昭和44年(1969年)12月1日、高浜年尾は虚子句碑十周年記念句会で成田山光徳寺へ。 |
十二月一日 高崎成田山虚子句碑十周年記念句会 成 田山光徳寺 武蔵野の櫟もみぢは冬も濃し 桑括る藁新しく日の当る 銀杏散り尽して梢の冬芽はや いと古りし御殿火鉢に火を熾ん |