虚子の句碑

霧いかに深くとも嵐強くとも



三浦半島の観音埼に観音埼灯台がある。


 慶応2年(1866年)、江戸幕府がイギリス、フランス、オランダ及びアメリカの4か国と締結した江戸条約で建設が決められた観音埼、剱埼、野島埼潮岬伊王島及び佐多岬各灯台の8灯台のうち一つ。

観音埼灯台


明治2年(1869年)、ヴェルニー設置。日本初の洋式灯台である。

2番目は野島埼灯台。

 昭和7年(1932年)、新婚早々の灯台守・有沢四郎と妻・有沢きよ子が暮らし始めた灯台である。

 昭和10年(1935年)3月3日、与謝野晶子・鉄幹夫妻は観音埼に遊ぶ。

 昭和23年(1948年)10月4日、高浜虚子星野立子と剣崎燈台へ吟行した。

霧如何に濃ゆくとも嵐強くとも

我国燈台八十年記念で燈台守に贈る句を作るため、大久保橙青海上保安庁長官、橋本燈台局長に案内されて剣崎燈台へ吟行した。美しく晴れた秋空は高く澄み、茫々と芒が生ひ茂つてゐる中に燈台守の家があつた。

『虚子一日一句』(星野立子編)

 十月四日。剣崎燈台へ。十一時濱に御迎が見えて父と一緒に雨後の晴間の美しい空の下を。逗子を過ぎ、前月三笠宮様の御招きで伺つた立石の御茶屋の前も通り過ぎて車はやがて三崎へ行く道から岐れ、左へ昔の要塞地点をドライブ。燈台の人々が秋草に埋れるやうな門前に私共を出迎へて下さる。

  花芒美しき時来しと記す

 一望の秋の海はまだ青黒い色を湛へて荒れ気味に見え
た。すだく虫の音と濤音ばかりがきこえ、もの淋しい。
此処に住む人のことを考える。


観音埼灯台に高浜虚子の句碑があった。



霧いかに深くとも嵐強くとも   虚子

 昭和23年秋、高浜虚子翁が観音埼を訪れ、緑の岬角に屹然と立つ白亜の勇姿と灯台に勤める職員が困難とたたかう姿を詠まれたといいます。この年海上保安庁が創設され、灯台80周年記念式典が挙行された年でもありました。

 昭和32年(1957年)、松竹映画「喜びも悲しみも幾年月」の撮影の舞台となった。

高浜虚子の句碑の隣にもう一つ句碑があった。


汽笛吹けば霧笛答える別れかな   橙青

橙青は海上保安庁の初代長官大久保武雄。

昭和44年(1969年)5月10日、除幕。高浜年尾星野立子が参加。

   五月十日 観音崎燈台、虚子、橙青句碑除幕 燈
   台官舎下ヒュッテ会場

燈台の径行くみんな夏姿

初夏の日の更に照り映え句碑除幕


 五月十日 観音埼に句碑除幕式

霧いかに深くとも嵐強くとも    虚子

汽笛吹けば霧笛答ふる別れかな   橙青

除幕せし句碑に忽ち夏の蝶

夏潮の今輝やかに輝やかに

句碑除幕すぐに似合ひや蝶とべり


句碑除幕すぐに似合ひて蝶とべり

 神事が進み句碑の除幕となる。幼い手に白布が引かれ、全容が現れた。その時、待っていたかのように蝶が飛んで来た。その一瞬の景が祝ぎ心に叶った。「すぐに似合ひて」は句碑への誉め言葉である。

 薄暑の日であった。場所は観音崎灯台、私も参加していた。実景であった。

霧いかに深くとも嵐強くとも
   虚子

汽笛吹けば霧笛答ふる別れかな
   橙青

 虚子句碑は高く橙青句碑は低く、師弟の情が伝わって来るように石は据えられていた。

 橙青は初代海上保安庁長官、その年が灯台創設八十年周年に当たるので句を虚子に請い、短冊に印刷し全国の灯台守に贈った。

 「除幕せし句碑に忽ち夏の蝶」もこの日の作である。夏蝶の方が季節からは正しいが、「すぐに似合ひて夏の蝶」では気持ちが弾み過ぎてしまう。句の背景は春季となる。

『立子俳句365日』

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