虚子の句碑
桐一葉日あたりながら落ちにけり
弘岡下ノ村 桐一葉日あたりながら落ちにけり この句碑は昭和二十八年十二月十五日、高知県吾川郡弘岡下ノ村城念に営まれた英霊塔の傍らに建てられた。高さ六尺、幅一尺の角柱碑。塔は高さ八尺、幅一尺三寸、厚さ七寸の御影石。句碑の裏面に次の碑文がある。 |
忠霊塔建設主任山下義弘君より英霊名簿の顕彰題文の悩みを聴く 十雨答へて高濱虚子先生の句碑はと諮へば大いに賛す 依て即ち所持の短冊を擴大篆刻し建塔を記念して之を立てる 永への供華とならば諸英霊を慰め申さむか |
十雨は即ちホトトギス同人川田卓彌の俳号である。(高知・勾玉社報) |
桐一葉というのは、秋のはじめ頃に桐の大きな葉がぽとりと落ちて来るのをいうのであります。普通の木の落葉は小さくてはらはらと數多くこぼれるように落ちるのですが、桐の葉は仙人の持っている葉団扇のような大きな一葉が目立って落ちます。其処から桐一葉という名前が起って来たのでありましょう。殊にその一葉は日当りながら落ちて行ったというのであります。日当りながらといった為に、その一葉に、なお生命が宿っているような心持もするのであります。 |
明治三十九年八月二十七日、虚子三十二歳の作である。 これはこの頃、虚子が週に一度開いていた「俳諧散心」と称する勉強会に出句された句である。 「俳諧散心」は前にも少し触れたが、碧梧桐の勉強会「俳三昧」が新傾向へ傾斜していくのに対抗しての勉強会であり、内容は題詠で互選という形式での句会であった。ここに集まる人々は真の俳句を目指して真剣そのものであり、虚子に見込まれた飯田蛇笏も学生服を被って参加していた。 この句は、〈遠山に日の当りたる枯野かな〉と共に客観写生の代表句のように言われる句であるが、題詠であり、かつて見た一枚の桐の葉が落ちる光景が彼にもたらした印象を頭に浮かべて作った、記憶の写生、心象の写生であることを忘れてはならない。 虚子が俳句の理念としての花鳥諷詠と、それを支える技法としての客観写生を唱えるのはもっと後になってからであるが、この句などは後の主張を作品として先取りしたような見事な写生句である。 一句を具体的に鑑賞してみよう。「桐一葉」は万象の秋をさきがけて知らしめる初秋の雰囲気に溢れた季題である。「一葉落ちて天下の秋を知る」(文禄)という中国の古典より出た言葉であって、そこには万象の衰えゆく淋しさ、秋の寂寞感が根源的に含まれている。日本の伝統的な詩歌はもちろんその心を本意として詠われて来た。 |