虚子の句碑
千二百七十歩なり露の橋
明治40年(1907年)11月3日、河東碧梧桐は新潟に着き、萬代橋を渡る。 |
万代橋はこれで五度渡るのじゃと思う。始めは新発田から来た時であった。合羽の前を半分下ろして、屈むように外を見ながら、別に説明する人もないので、信濃川はこれだ、万代橋はこれに違いないと思うた。北上、米代、御物、最上川などに比して更に広い大きい感じであった。前に行き詰った人車が沢山あるので、橋板をゴトゴト鳴らしながら、車はあるいていた。右の方が河口か、左の方が川尻かも知らずに過ぎて、ただ左手の方に撒き散らした小船が漬簗(つけやな)の網をたぐっているのを見ておるうちに、橋は尽きた。 |
明治41年(1908年)12月、初代萬代橋は新潟大火により半分以上が焼失。 明治42年(1909年)12月、二代目萬代橋工事完了。 |
大正13年(1924年)9月11日、高浜虚子は萬代橋を渡ってみる。 |
新潟、萬代橋を渡り見る 千二百七十歩なり露の橋 九月十一日、萬代橋を渡り見る。 |
碑陰 大正13年9月、虚子先生を新潟に迎へたる時の先生の句を新萬代橋竣工の昭和4年に御揮毫くだされしもの
昭和4年11月 みずほ記 昭和53年深秋 新潟俳句会建立 |
昭和4年(1929年)、現在の三代目萬代橋に架け替えられた。 昭和12年(1937年)1月3日、高浜虚子は武蔵野探勝会で新潟へ。高浜年尾同行。 |
こゝから手ぶらになつた人々は、われわれ新潟の迎への人々と幾かたまりに分かれ思ひ思ひに風花の万代橋を渡る。且て昔の木橋四百何十間。 千二百七十歩なり露の橋 虚子 と歩測された虚子先生は、全く面影を異にした新鉄筋コンクリートの万代橋を知らぬ貌に静かに歩いて行かれる。
『武蔵野探勝』(新潟行) |