天文3年(1534年)に生まれた肥後細川家の初代細川藤孝(幽斎)公は、幼いころは母方の実家清原家で育てられました。清原家は有名な清少納言などを輩出した学者の家であり、学問的に大変恵まれた環境で成長したようです。藤孝(幽斎)公の人生で大きな転機になったのは、同じ年齢の織田信長との出会いでした。二人は厚い信頼関係で結ばれ、信長旗下の勇将・歌人として近世細川家の基礎を築きました。室町将軍家に始まり、信長、秀吉、家康に仕えた数少ない武人である一方、和歌や連歌、能に茶の湯と諸芸に通じた当代一の文化人でもありました。とくに和歌については「古今伝授」の継承者となりました。関ヶ原の戦いのおり、八条宮智仁(としひと)親王への古今伝授が中断し、丹後田辺城が西軍により包囲された際、藤孝(幽斎)公の死によって古今伝授が絶えることを危惧した、親王の兄の後陽成天皇が勅使を派遣され、和睦が成立しました。藤孝(幽斎)公が八条宮智仁親王へ古今伝授を行った「古今伝授之間」が大正元年(1912年)、肥後細川家の神霊を祀るこの水前寺成趣園に復元されました。 |
細川忠利公銅像

天正14年(1586年)忠興(三斎)公の三男として産まれる。母は明智光秀の娘の玉(ガラシャ)。藤孝(幽斎)公の孫。慶長14年(1609年)徳川秀忠の養女と豊前(大分県)中津城で結婚します。寛永9年(1632年)肥後細川家の初代藩主として熊本城に入り、父忠興(三斎)公は八代城に入ります。水前寺成趣園の創設者。幕閣要人との交友関係は、春日の局(三代将軍家光の乳母、父は明智光秀の重臣・斎藤利三)、柳生宗矩(秀忠・家光の兵法師範)、沢庵宗彭(幽斎公時代からの交流)など。剣豪宮本武蔵は、寛永17年(1640年)に忠利公から熊本に招かれ、「五輪の書」などの兵法書を書きます。寛永18年(1641年)忠利公の逝去の際、家臣19人が殉死しました。森鴎外が書いた「阿部一族」のモデルとされています。 |
能楽堂

夏目漱石の句碑

鼓うつや能楽堂の秋の水
明治29年(1896年)の句。
平成29年(2017年)11月、建立。
水前寺成趣園

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