当寺の山号は、境智山という。本尊は阿弥陀如来坐像。当寺はもともと、元和2年(1616年)に豊前国中津に所在したが、寛永9年(1632年)の細川忠興公の肥後入国に従って、寛永10年(1633年)八代へ移り、正保3年(1646年)の細川行孝公の宇土入部に際して宇土の石ノ瀬町に本堂を造営した。当時の山門は、昭和20年(1945年)8月10日、第二次世界大戦の戦火で焼失した。 山門の側に芭蕉翁の句碑があるが、碑面は損傷して明らかでない。境内には俳人「佐方一竿人」の墓碑があった。 当寺伝来の宝物に、恵心僧都の作と伝える阿弥陀如来の一幅がある。また境内には六体の地蔵尊があり、宇土地蔵まつりの起源となった寺としても知られている。
宇土市教育委員会
|
この芭蕉塚は「奥の細道」等で有名な松尾芭蕉を偲んで建てられた句碑です。芭蕉を偲んで建てられた塚や句碑は熊本県内で35あるといわれていますが、円応寺の芭蕉塚は「諸国翁墳記」という本の中で、肥後六基の一つとして挙げられています。 昭和20年の戦火により表面が剥落してしまい、現在はほとんど字を読むことは出来ませんが、正面に「里の名も聞きたき夜の山の道」芭蕉、背面に「闇にくる秋をや門で夕涼み」西華坊、右面に「渡り安しその鶯の千里より」一竿人、左面に「不知火や浪の錦は闇とても」盧元坊という句が彫ってあったと伝えられています。このうち一竿人というのは、宇土細川藩主興文(おきのり)公の家臣佐方作左衛門武信のことで、俳人として有名でした。 塚の台石を見ると、安永7年(1778年)〜8年(1779年)の春までに作られたことが分かります。また「斜日」と「十三回忌」という文字が見られますが、一竿人が斜日堂という別号を持ち、明和4年(1767年)に死去していることから、この芭蕉塚が一竿人の十三回忌を機に作られたと推測されます。
宇土市教育委員会 |
宇 土 圓應寺 闇に來る秋をや門で夕凉み |
『諸国翁墳記』に「四考塚 肥後宇土圓應寺ニアリ 鴨足坊建 里の名も聞たき夜乃山の道」とある。 |