江戸から明治にかけて、船場は、馬ノ瀬の御倉床(おくらどこ)、新開の湊と並んで宇土の代表的な船着場としてたいそう賑いました。 この石段は船着場の遺構であり、物資を積んで船場川を遡ってきた船が荷上げをしたところです。 このような荷揚場の石段は江部地蔵から三ッ又までの間に右岸に6個所、左岸に5個所、石ノ瀬川に4個所ありました。 また、今は確認できませんが石段脇には船繋石もあったと思われます。 この船場橋際の船着場の前には細川藩蔵屋敷があり、「荷揚げした米を蔵まで運び入れる際、こばしても集めやすいように」という役人の命で板石が敷詰められました。 この石は、船場橋と同じピンク色をした馬門石(網津川流城の馬門(まかど)でとれる阿蘇溶結凝灰岩の一種)で、轟泉水道樋管・井戸枠や石小路町の天神様の鳥居などにも使われています。 |
篠原温亭は本名は英喜で明治5年11月1日、当時宇土町一里口に漢字の塾を開き子弟の教育に当っていた、篠原直の長男に生まれる。祖父英助は宇土細川藩の学問所「温知館」の句読師として有名であった。 明治20年父を亡くし家督を継ぐ。篠原家の檀那寺である善行寺の住職の勧めで京都本願寺の文学寮で学ぶ。その後上京し徳富蘇峰の国民新聞社に入。30年間新聞人として専念し社会部長に昇格する。 温亭が句作を始めたのは明治30年頃からで写生主義温雅な表現に努力精進した。正岡子規系のホトトギス同人となる。後に九州日日新聞社、現在の熊本日日新聞社の俳壇選者となる。高浜虚子は温亭の人物評として「性温厚寡黙、世に求めず、人と争わず」と述べている。 大正15年9月2日、脳溢血再発により、東京の自宅で逝去。享年55才。
法名 英想院釈温亭居士 |