江戸時代の文政元年(1818年)より両神社で「富くじ」を行うことが許された。 この頃、宮原上町(現在の一番街)で造り酒屋を営む湊屋橋本順左衛門は、毎朝早起きして井川(現在のけやき水源)で手を洗い身を清め、太古から湧き出る水を祀る水神様に自然の恵みを感謝した。そして小国郷の氏神である両神社へ参拝し、天下の太平と商売繁盛を祈ることを日々の勤めとしていた。 ある日の朝方、湊屋順左衛門は、けやき水源に小さな舟が流に逆らい入る夢を見た。 湊に舟が入ることを吉兆と感じた、順左衛門は「富くじ」を買い、見事に大乙〔一番くじ〕を当てた。湊屋順左衛門の正夢の話を聞いた、郷内城尾村市郎右衛門は、毎朝一里の道をけやき水源に通い水神様と両神社に「一番くじ」を願って祈り続け心願成就し、両神社富くじと久住宮富くじに四回大乙〔一番くじ〕を当てたのである。 このことから、両神社の高橋宮・火宮の二祭神は「千両・万両の神様」と呼ばれるようになった。その後富くじは年毎に盛んになり、嘉永より安政年間までの10年間に76回も行われたと古文書に記載されている。 明治維新となり、両神社の富くじは無くなったが、今も祈願者に開運招福を授けて下さるのである。
小国町商工会 |
高橋大神(たかはしおおかみ) |
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火宮大神(ひのみやおおかみ) |
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雨宮媛命(あまみやひめのみこと) |
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御妃神二座・御親族の神十六座奉祀 |
杜記によれば、太古の昔、高橋神・火宮神の御兄弟は父祖阿蘇大神より小国郷開拓の命を受け、農耕を起こし、衆庶に衣食住や殖産興業等の生活根源を教え、郷土開発先駆の多大な功績を残された。 この御聖徳と御功業を敬仰し、第十六代仁徳天皇の御代に高橋大神を祀り、第十八代反正天皇の御代に火宮大神を祀り、これより両神社の御社名が始まったと伝わる古社である。 |
大正2年(1913年)、拝殿・楼門を新築。 |
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平成3年(1991年)、台風19号のため楼門倒壊。 |
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平成9年(1997年)10月、楼門再建竣工。 |
火の宮境内 散紅葉して暫くは何も無し |
虚子翁は、昭和二十七年十一月の初め、由布城島高原句碑の除幕式に臨んだあと、年尾・立子両氏その他一行総勢二十八名で阿蘇に向った。小春日に恵まれたその第一日目は長途車を駆って外輪山の遠見ヶ鼻に至り、末枯るる阿蘇、九重の大観を賞し、夜は小国の笹原耕春氏居に泊った。第二日(十一月一二日)紅葉の谿谷を縫うて杖立温泉に下り、やがて引返して宮原両神社の大鳥居前に車を捨てた。神殿の玉垣のほとりに歩を運んだ翁は、老杉の空を仰ぎ、桜の返花に目をとめつつ長い間佇んで居た。その日の俳句大会で発表されたのがこの句であった。またこの行によって小説「小国」は創作されたのである。 |
昭和36年(1961年)3月11日、高浜年尾は小国神社社務所で勉強会。 |
三月十一日 勉強会第一日 二日市温泉より小国へ向 ふ 小国神社社務所 輪地(わち)焼きといふが手はじめ山を焼く 山焼を待つ輪地切りのかしこにも 草小積みしてありなば木伏せてあり 杉苗を植ゑしばかりの麦畑 |
昭和35年(1960年)10月5日、星野立子は高浜虚子の句碑を見ている。 |
宮原の静川は以前と少しの変りもなく流れていた 火の宮の境内 に父の句碑 |
散紅葉しばらくしては散紅葉 虚子 |
を見る。昭和三十年十一月、小国ホトトギス会が建てたと記してある。 昭和二十七年十一月に訪ねた折の句である。 |
文化9年(1812年)6月27日、伊能忠敬は第8次測量で兵庫屋奴留湯省吾宅に泊まった。当時、忠敬は68歳であった。 |