ほの白く木山の城の石垣のたそがれ初めて川風ぞ吹く | 寛 |
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相良びと白をば著つつあしたより大橋を行く川の初秋 | 晶子 |
昭和7年8月に人吉を訪れた夫妻は相良の歴史と文化・温泉と焼酎、そして清流球磨川に遊び、人々の情趣あふれるもてなしとその情景を 川上の山より射せるあけぼのに球磨の大橋べに少し引く など寛28首、晶子17首に詠む。 この歌碑はこの地に相応しい1首を選び九日町有志により建立する。 |
明治43年(1910年)5月3日、河東碧梧桐は日奈久から人吉を訪れ、「鍋屋」に泊まっている。 |
八代より汽車、日暮れてこの地着。鍋屋というのに宿をとると、裏にはすぐ玖摩川が流れておるのであろう。遠くに瀬の音が聞える。ゾーという非音楽的な絶間ない響きの中に、時々ヒュッヒュッという音楽的な澄んだ音がする。二ツ三ツ続いて聞える中、いつか沢山が共鳴りに鈴でも振るような微妙な合奏になる、宿の女中に聞くまでもなく、珍らしく河鹿を聴くものだと枕に着いた。 |
山かげの船ハ灯を置くわが船はな不月を置く川の中ほど | 鉄幹 |
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大空乃山のきはより初まると於なじ幅あるくまの川か那 | 晶子 |
昭和7年8月、与謝野寛・晶子ご夫妻は鍋屋本館に宿泊されました。当館ロビーの画帖に遺るこの歌は、自筆の歌です。 |
尚、写真は川下りの舟に乗るご夫妻と六女の藤子様です。お見送りは当館の娘達です。 |
昭和15年(1940年)3月、当時海軍中将だった山本五十六は、戦艦長門(鹿児島)を飛び立ち来人、鍋屋本館に1泊した。 |
与謝野鉄幹・晶子夫妻昭和7年8月12日、末娘の藤子を伴い人吉に1泊し翌日、球磨川下りをして天草に向かった。 そしてこのわずかな間に鉄幹は28首、晶子17首を詠んだ。しかもその大半が2人に与えた感動のほどが偲ばれる。 わが船に別れがたしと水かけし人見ゆるなりなほ水上に この晶子の歌は、名残り惜しいと私の舟に水をかけてくれた人たちが、いつまでも見送ってくれているという意味。 水をはじめ、あらゆる自然環境を守っていこうとする「おおくま座の会」では、球磨川下り創業百年に際し、その安全と繁栄を祈念して、この歌碑を建立する。 |
明治43年(1910年)、人吉林温泉の発掘に成功。人吉温泉の始まりとなったそうだ。 明治44年(1911年)、5月11日、鹿児島本線(人吉−吉松)延伸全通。 大正9年(1920年)12月31日、斎藤茂吉は人吉林温泉に泊まっている。 |
球磨川の岸に群れゐて遊べるはここの狭間に生れし子等ぞ みぎはには冬草いまだ青くして朝の球磨川ゆ霧たちのぼる |