この四郎像は郷土史家であり、彫刻家亀井勇初代天草切支丹館長が、昭和42年、天草島原の乱の史実をもとに彫刻し、本渡市及び市内各種団体ならびに多くの人々の善意により、これを建立する。 |
ただひめよ |
|
北原白秋 |
|
曰(い)いけるは、 |
|
あな、わが少女(をとめ)、 |
|
天艸の蜜の乙女よ。 |
|
汝(な)が髪は烏(からす)の如く、 |
|
汝が唇(くち)は木(こ)の實の紅(あけ)に没藥(もつやく)の汁(しゆ)滴(したた)らす。 |
|
我が鳩よ、我が友よ、いざともに擁(いだ)かまし。 |
|
薫(くゆり)濃き葡萄の酒は |
|
玻璃(ぎやまん)の壷に盛るべく、 |
|
もたらしし麝香の臍(ほぞ)は |
|
汝(な)が肌の百合に染めてむ。 |
|
よし、さあれ、汝(な)が父に、 |
|
よし、さあれ、汝(な)が母に、 |
|
ただ秘めよ、ただ守れ、齋(いつ)き死ぬまで、 |
|
虐(しひたげ)の罪の鞭(しもと)はさもあらばあれ、 |
|
ああただ秘めよ、御くるすの愛の徴(しるし)を。 |
明治40年8月「新詩社」主宰の與謝野鉄幹を中心に青年詩人北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里の5人はキリシタン遺跡を探訪のため天草島を訪ずれた。そして白秋は明治42年に明治文学史上不朽の詩集「邪宗門」を刊行した。「邪宗門」の中に収録された「天草雅歌」は浪漫と絢爛、色彩的な感覚に満ち、斬新にして妖しい香気をはなっている。白秋の「邪宗門」の扉を開いたのは天草の歴史的風土がその根源をなしているのである。 |