江戸時代になると、各地の大名には江戸とその領地を往復する参勤交代が義務付けられました。それは薩摩藩も例外でなく、多くのお供をつれ、江戸と薩摩を往復していました。その行列のために整備されたのがこの薩摩街道です。その当時日奈久は温泉地として利用されていましたが、薩摩街道が整備されたことにより人の往来が増え、日奈久温泉はさらに発展することになりました。 藩営温泉場も整備され、日奈久温泉街の入口には木戸門(構)があり、高札場や番所なども設置されていました。 現在地は、木戸門があったと考えられる場所です。 |
日奈久地区に多く残るなまこ壁。地区内でも津村家のなまこ壁は当時のままの姿を綺麗に残しています。なまこ壁は、瓦を押さえている漆喰の盛り上がった姿がなまこに似ていることから、その名で呼ばれています。津村家は明治期、商家であったことから、付近で火災が発生した場合、延焼を防ぐために濡れたムシロを掛けるL状くぎが、外壁に取り付けられるなどの防火対策が施されています。 |
県下で最も古い歴史をもつ温泉街。応永16年(1409年)、浜田六郎が父の刀傷を癒そうと神に祈り、発見したという。 江戸時代初期には細川家の藩営浴舎があり、八代松井候や参勤途中の島津候もここをよく利用され、現在もその歴史の面影を残しています。 |
金波楼本館は、明治42年(1909年)に建てられた県内最大級の木造3階建て建造物で、屋根は寄棟・切妻様式を複雑に組み合わせ、各階に庇を付け、大きな窓とガラス戸で開放的で美しい外観をなしています。 大広間棟(木造2階建て)は、昭和13年(1938年)に建てられ、2階の80畳の大広間は竹を精巧に編み込んだ船底天井や自然木の銘木を用いた欄間や床の間が風情を感じさせます。 欄間を設けた切妻造の「正門」と、上部を土壁、下部を板張にした長い「塀」とともに、日奈久温泉街の伝統的景観を代表しています。
熊本県 |
大方は木賃制度の安宿のように聞いていた温泉が意外にも三層楼の軒を並べておる旺んな様に一驚を喫した。もっともいずれも新築と見えて木柱が白々とまだ匂いもとれないと思われるほどだ・それにきのうから土地の春祭じゃというので、けさは何れの温泉宿も軒並に種々の装飾をしておる。三層楼の上から下へ、紙でこしらえた万国々旗を縦横に引張ったのもある作り花の派手なのを暖簾のように懸け列ねたのもある。子供訛しに過ぎんのはいうまでもないが、疲れて寐過した眼も為めに覚めるほどであった。 |
温泉はよい、ほんたうによい、ここは山もよし海もよし、 |
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出来ることなら滞在したいのだが、―― |
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いや一生動きたくないのだが |
昭和5年(1930年)9月10日、山頭火は八代から日奈久を訪れて織屋という木賃宿に3泊した。 |
明治10月3月、西郷隆盛は1万5千の兵をひきいて熊本城に迫ったが、当時日奈久は薩軍の勢力下にあり、糧食基地であった。3月19日、日奈久南方洲口に官軍数百の兵が上陸。その援護に日奈久に向かって艦砲射撃。これと前後して数隻のボートにより日奈久港に上陸を敢行したとき、銃火が交えられた。その時の官軍の銃弾のあとが海岸に面していた八代屋2階の柱に痕跡をとどめている 穂多田正典書 |
大正5年(1916年)、坂田道太は八代市に生まれる。父坂田道男は八代市長。 昭和60年(1985年)1月、衆議院議長に就任。昭和61年(1986年)6月まで務めた。 昭和61年(1986年)、上田幸法の詩碑に撰文を書く。 平成16年(2004年)1月13日、87歳で没。 |