当寺は、曹洞宗の九州総本山で、山号を大梁山という。弘安元年(1278年)、地頭河尻泰明の妹素妙尼が、曹洞宗開祖の道元の出子で、順徳天皇(一説では後鳥羽天皇)第3皇子の寒巌義尹(かんがんぎいん)を請じて、開創した寺で、九州の名刹として栄えた。寺の付近の景色が寒巌のかつて遊んだ中国明州の大慈山の風光に似通っているところから寺名をとり、彼が近くの大渡に長橋を掛けたところから山号をとった。
その後、建物は戦乱等によりしばしば火災に会い、再建され変化した。また、四町四方あったといわれる境内も、河川改修等により狭くなっている。
寺宝として、弘安10年(1287年)の銘がある梵鐘、寒巌義尹文書(以上国指定)や、永仁5年(1297年)の銘をもつ層塔、宝篋印塔、宝塔、山出釈迦図、観音菩薩図、雀竹図(以上県指定)などのほか、多くの仏像、仏画および古文書が残っている。
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熊本県教育委員会
山 門

七堂伽藍の一つにして、三門とも云う。2階に十六羅漢を安置す。享保5年(1720年)七十八世大梅天常和尚代の建築にして、昭和50年代修復を行う。
大慈禅寺 |
大慈寺の山門長き青田かな
〔子規へ送りたる句稿 十六〕 |
鐘 楼

梵鐘は国指定重要文化財であるが、現在は無い。
種田山頭火句碑

まったく雲がない笠をぬぎ
出典は『行乞記(一)』。
昭和5年(1930年)10月26日、高鍋町から都濃町へ向かう途中で詠まれた句。
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種田山頭火(本名正一)は、明治15年山口県生まれの俳人。早大を中退後、郷里で酒造業を営みますが破産し、大正5年に大人が多かった熊本市で古本屋等を始めますがうまくいかず当てのない生活を送っていました。同14年に坪井の報恩禅寺望月和尚のもとで出家し植木町味取観音の堂守となりましたが長続きせず、旅に出て俳句と酒の行脚人生を送り、昭和15年松山市で生涯を終えました。この句碑は昭和27年、山頭火を偲ぶ人々の手によって望月師在住のこの寺に建てられもので「まったく雲がない笠をぬぎ」の自筆の句が刻まれています。
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昭和27年(1952年)12月6日、建立。
『山頭火句碑集』(防府山頭火研究会)によれば、4番目の山頭火句碑である。
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