「西南記伝」には明治10年の西南戦争における山鹿方面と田原方面とは、其の勇戦健闘の點より観察すれば、旗鼓堂々、一は龍の如く、一は虎の如く、彼は山の如く、此は風の如く、雙力煥発、実にこの戦役を通じての一大偉観であったと記してある。 山鹿口戦の薩軍の総帥は桐野利秋、官軍の総帥は三浦梧楼、いずれも豪勇比なき将軍であったが、部下の将兵も亦よく果敢に戦った。官軍は東京鎮台始め4鎮台及び小倉十四連隊、薩軍は四番大隊を主軸とする軍団と、熊本協同隊、飫肥隊によって編成されていた。2月26日より3月21日まで両軍相会戦すること5回、鍋田原を中心に、北は正円寺より南は志々岐・長岩に至る間に激戦が展開された。中でも3月12日と15日の戦は熾烈を極めた。その間、官軍の戦死者325名、薩軍の戦死者は二百数十名であった。 この長源寺には、当時薩軍の野戦病院があったが、負傷して運びこまれ、ここで絶命した者、又は戦場で倒れてここで葬られた等の墓が40数基あったと云う。戦後薩軍から近親の方が尋ねて来て遺骨を持ち帰られたそうであるが、その中の2、3の墓碑は今も尚残っている。又本寺過去帳には此処で葬られた勇士の氏名も2、3記されている。それらの勇士の霊を慰めんがため建碑するものである。 |
元禄6年(1693年)1月20日、深川芭蕉庵から大垣の木因に宛てた書簡にある。 |