2022年高 知

旧都築家別邸〜谷干城の像〜
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四万十町茂串町の岩本寺門前町に旧都築家別邸があった。


旧都築家別邸の歴史と建築的特徴

 文政5年(1822年)、土佐藩は荒地の多い窪川・仁井田の両郷に身分、職業などの制限を撤回した御触書を出して窪川仁井田郷の開墾者を募集しました。安芸郡芸西村和食の都築家では、次男の半平が地元の田畑を処分して窪川に移住し、新田開発に取り組みました。

 当時和食からは数人の入植者が開墾に携わっていました。半平はこれより少し遅れて窪川に入り開拓農民となり、後に酒造業や水産業などの実業家としての手腕を発揮し豪商として成功を収めました。

 半平は明治45年(1912年)に64歳で没しています。跡を継いだ子孫が造り酒屋などの事業を受け継ぎましたが、昭和17年に実施された国の統制令によって酒造の廃業を余儀なくされました。大戦後には別邸を宿泊施設に改造し、半平の業績を偲んで「半平旅館」と名付けて営業しました。

 明治34年(1901年)に建てられたこの建物は杉丸太の軒桁や水切り瓦付き土佐漆喰仕上げなど、土佐の伝統建築技術を駆使した様式が各所に見られます。昭和30年春には、土佐路を巡視する昭和天皇の第二男子である義宮様の休憩所として昼食をとられたことからも、この別邸の格式の高さが伺えます。

 建物は四国霊場第37番札所岩本寺の門前町の一段高い場所に設置し、北側正面を重厚な構えの意匠で建築しています。

 窪川地域の開拓を基盤に建築されたこの建物は米どころ高南台地の発展と文化を語り伝えることができる象徴的な建物であり、県西部の流通・往来の要地にあって、高知県の近代和風建築の中でも特異な別邸建築として貴重な存在です。

 この建造物は、平成20年に家屋敷ともに四万十町へ寄贈されたものを、四万十町がその文化的価値を認め、文化財的手法で同年に修復したものです。

四万十町

谷干城の像


谷干城 四万十町出身

 幕末から明治の怒濤の時代を、武士として、軍人として、教育者として、政治家として生きた土佐の傑物!

 天保8年(1837年)、土佐藩窪川村(高知県四万十町)に生まれる。幕末には、坂本龍馬や中岡慎太郎らと交わり討幕を目指し、戊辰戦争では新政府軍の大軍監として活躍した。

 明治10年(1877年)、西南戦争における熊本城攻防戦では、政府軍の熊本鎮台司令長官として、熊本城籠城作戦を指揮、52日にわたり西郷隆盛率いる薩摩軍の猛攻に堪え、政府軍勝利に大きく貢献。その名を馳せた。

 退役後は、2代目学習院院長、第1次伊藤博文内閣では初代農商務大臣を歴任したのち、貴族院議員として政界・言論界に影響を与え続け、明治44年(1911年)に波乱万丈の生涯を閉じた。

 この像は、明治維新150年を記念して、熊本市の谷干城像や当時の写真などを参考に(株)海洋堂の監修を受けて作成された。

四万十町

古民家カフェ「半平」


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