奈良平安の時代から比江の地に土佐の国庁が置かれた。貫之は延長8年国司として来任、この地に居住した。地名を内裏(ダイリ)という。承平4年任満ちて京都へ帰る時の船旅日記「土佐日記」は特に名高く、歌人として第一人者であると共に、国司としても極めて優れ人々に敬慕せられた。 ここに建つ碑は天明5年(寛政元年竣工)のものと大正9年及び平成元年建立のものがあり、何れも後人が紀氏の徳を慕いその業績を讃えたもので、また俳人高浜虚子の句碑もある。 |
昭和6年(1931年)4月2日、高浜虚子は紀貫之邸跡を訪れている。 |
土佐日記懐にあり散る桜 昭和六年四月二日 土佐国高知に著船。国分村に紀貫之の邸 址を訪ふ。 |
昭和24年(1949年)10月20日、虚子は句碑を見ている。 |
わが終り銀河の中に身を投げん 十月二十日。高知句謡会。林並木訪問。貫之邸址の句碑を見、 要法寺に於ける玉藻句會に列席。
『六百五十句』 |
この句碑は高知県長岡郡国府村国分の貫之館址にある。昭和十九年四月三日、竜巻会の建立にかかり、高さ六尺六寸、幅一尺、厚さ七寸の御影石角柱碑である。 貫之は、附け加えるまでもなく古今和歌集の選者であり、平安時代前期の歌人として柿本人麿と共に歌聖と仰がれて居る。ことに「土佐日記」は、当時異色ある存在であった。延長八年正月、土佐守に任ぜられ、任地に下り、在任四年の歳月が満ちて承平五年都に帰った。「土佐日記」は即ちその道中の日記である。館址という場所には、いま建築物などもなく、畑地の一隅に桜の老樹が枝を張って居るに過ぎない。 |
高知句謡会。一寸の閑を父の旧友、林並木さんを訪問。夕月の下を貫之邸址の父の句碑「土佐日記懐にあり散る櫻」も見て来た。駆つてゐる自動車の窓に金星が輝いて見えてゐた。その後の要法寺に於ける玉藻句会の句。
『虚子一日一句』(星野立子編) |
高知の駅の前が大火であつたさうでまだ水だらけの中 を過ぎる。一面に焼けてしまつた広地を不思議な心持で 見る。車はそのまゝ町を過ぎて、父の句碑のあるところ へ。風がだんだん寒くなり、日は落ちてしまふ。とつぷ り暮れた中を提灯に迎へられて要法寺といふ私共の宿の 川向ふの森の中のお寺へ著くと、大勢の玉藻の会員達が 投句を急いで私達の帰りの遅いのを氣づかつて待つてゐ てくれた。
星野立子・未刊句日記 |
昭和27年(1952年)4月13日、星野立子は紀貫之邸跡に行く。 |
四月十三日。雨もよひの中を貫之の墓のある処へ行く ことになる。其処には先年父の句碑も建つたのである。 「土佐日記ふところにあり散る桜 虚子」 春雨の降りみ降らずみ句碑を見る 句碑を見に来し春雨の降る中を 旅人我貫之桜葉桜に 貫之の花のうてなの散る石に
星野立子・未刊句日記 |
昭和30年(1955年)12月、山口誓子は虚子の句碑を見ている。 |
高知へ行ったとき、私もそこを訪ねた。橋詰延寿氏の案内だった。冬だったから、畑の、枯れた桑に透いてその館址が見えた。近寄ると、木立があって碑が立っていた。そして虚子の句碑が立っていた。 土佐日記懐にあり散る桜 風が吹いていたが、私は疲れていたので、枯草に腰を卸した。私は遠く配流されてそこに来ているような思いがした。 虚子は、「土佐日記」をふところにして、花を散らす桜の木に立ったのだ。虚子は大学ノートを句帖にして、それをよく和服のふところにしていた。紀貫の館址を見ると云うので、「土佐日記」もふところにすることを忘れなかったのだ。
『句碑をたずねて』(四国・九州路) |
紀貫之宅址 冬の土佐配流されて來しならず
『構橋』 |
平成元年(1989年)10月14日、国府史跡保存会創立30周年記念に建立。 |