この城跡は中村城跡の城群の一つで、一条氏一門の西小路氏の持城と考えられています。白は二区画に分かれていて、面積は約200平方米(約60坪)程度であったと思われます。16世紀後半には一条政権が滅び、西小路氏も中村を退去すると、城は荒廃し、山畠となりました。現在は地形が変化し、かつての城の面影はほとんどありませんが、わずかに土塁の一部が残っています。 |
八月九日 幡多中村市へ向ふ。花屋旅館 湾港を出水濁りの沖へのぶ 茶屋あれば樗下かげ為すところ 四万十川の出水の土手のきりぎりす 京の名の山あり幡多の春秋を
『句日記』(第一巻) |
京の名の山あり |
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幡多の春秋を |
中村城跡は、御城、為松城、東城など同じ丘陵上に築かれた複数のお城の総称です。このような城を連郭式山城と呼んでいます。 この場所は中世には一條氏の家臣であった為松氏の居城でした。付近の様子から近世には山内氏の居城としても利用されたものと考えられます。 |
城のこのあたりは為松城の詰(本丸)とよばれ、約800平方米(240坪)の広さであったようです。この詰につづき8区画で城を形成していました。城主とされる為松(たんまつ)氏は、この地方の有力な豪族(国人)の出ですが、一条氏の入国以来家臣となっています。しかし、16世紀後半の一条政権滅亡とともに所領を失い、歴史から姿を消しました。現在、この碑の左手50mの地点に土塁の一部が残っています。 |
区々成敗且休論(区々たる成敗 且く論ずるを休めよ) |
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千古唯応意気存(千古 唯だ応に意気を存すべし) |
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如是而生如是死(是くの如くして生き 是くの如く死す) |
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罪人又覚布衣尊(罪人 又た覚ゆ 布衣の尊きを) |
昭和58年(1983年)1月24日、幸徳秋水生誕百三十年・幸徳秋水刑死70周年記念事業実行委員会建立。 |
※この詩は、死刑宣告された明治44年1月18日に戒護看守の菅野丈右衛門の依頼で、沈吟数刻の後、書き与えた絶筆である。 |
明治4年(1871年)11月5日この地中村市に生まれ、幼時から豊かな才能を示した。1900年前後『萬朝報』の論説記者として名文をもって世に知られた。同郷の師中江兆民の自由民権論を継承・発展させて、わが国社会主義運動の先駆者となり、『廿世紀之怪物帝国主義』『社会主義神髄』などを著述して多くの読者を得た。日露戦争に反対して『平民新聞』紙上に「非戦論」を展開した。やがて無政府主義思想に転じ、時の権力によって「大逆事件」の首謀者に仕立てられ明治44年(1911年)1月24日、東京市ケ谷監獄の絞首台で平和と民主主義のための闘いの生涯を閉じた。 |
四万十川の |
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青き流れを |
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忘れめや |
上林曉は本名徳廣巌城(とくひろいわき)。幡多郡大方町に生まれ大正4年県立第三中学(現中村高校)を卒業、熊本五高を経て東大英文科を終え、作家として世に立った。 時流に媚びない清高な作風と、その誠実なひととなりは、ながく人々の心をうるおすであろう。 |
四万十川は上林さんのこころのふるさとである。 |