2018年〜高 知〜
後藤象二郎生誕之地
〜武市瑞山先生殉節之地〜
郭中(かちゅう)の南東端にあり、南が直接郭中堤防に接する細長い片側町であったことに由来する町名。藩政中期までは「土手町」といわれるところであったが、次第に武家屋敷街として整備された。幕末に大政奉還建白で活躍した後藤象二郎はこの町の出身である。御馬廻などの武士と御小姓組、御留守居組などの武士の屋敷が並んでいた。 |
天保9年3月19日この地に誕生。義叔父執政吉田東洋に学び、藩政に抜擢される。第15代藩主山内豊信(容堂)の信任を受け、公武合体論を唱え、土佐勤王党と対立、武市瑞山らを断獄する。のち坂本龍馬と接し、容堂公にすすめて、大政奉還の大業を成す。 明治維新後は竹馬の友、板垣退助と共に自由民権運動を推進、在野勢力の大同団結に指導者の光芒を放つ。伯爵。 |
武市小楯通称は半平太瑞山と号す文政十二年九月長岡郡吹井村に生まれる天資英偉明秀人格一世に高し幕末多難際に土佐勤王党を率い国事に奔走す後吉田東洋暗殺に連座し慶應元年閏五月十一日この地に割腹す時に年三十有七
撰文 高知市文化財保護協議会 |