明治33年、日本新聞に発表。 今治市河野美術館所蔵の真蹟短冊による。 |
明治32年、根岸庵に於ける運座に招かれた折、夏目漱石先生より秀逸に推される。 当時弘岡は毎年のように水害に見舞われた。 伊丹市柿衛(かきもり)文庫所蔵真蹟による。 水難の茄子畠や秋の風当時弘岡は毎年のように水害に見舞われた。 これは若尾瀾水(庄吾)が旧制第二高等学校に在学中の詠草で、村民のご好意とご縁を得て此処に建碑する。 |
明治10年(1877年)、瀾水は弘岡下ノ村の富農に生まれた。本名庄吾。21歳で高浜虚子や河東碧梧桐らと交わり、正岡子規の門人となり文学活動に没頭する。しかし明治35年(1902年)の「子規の死」を論評によってホトトギス全盛期の俳壇から追われ失脚する。明治39年(1906年)東京帝国大学を卒後し郷里へ帰り、高知新聞部外記者として文芸活動。大正10年(1921年)俳誌「海月」を発刊して俳壇に復帰した。また日本画家、美術品収集家として、その研究や文学の研究にと悠々自適の生活を送り、数多くの著書がある。昭和36年(1961年)12月1日、84歳の生涯を閉じた。 |
屋根の頂に置く尾戸焼の宝珠です。元文四年九月吉日森田光正の銘があります。 |