高知市の中央にそびえる大高坂山(標高44.4m)にあって、天守閣からは市街地のほぼ全容が眺められます。現在は県立高知公園となっています。 高知城は、関ヶ原の戦いの功で遠州掛川6万石から土佐24万石に封ぜられた山内一豊が、慶長6年(1601年)から築いた城です。人夫は毎日1,200人〜1,300人を動員し、資材は近隣から集め、瓦は大坂から取り寄せ、一豊は1日おきに浦戸から工事の督励のため現場におもむきました。慶長8年(1603年)には本丸と詰門・太鼓楼が完成し、一豊は同年8月に入城しました。 享保12年(1727年)には大火にあい、追手門ほか数棟を残して焼失しましたが、2年後に再建に着手し、24年かけて復旧しました。これが現在の高知城です。天守閣と追手門がそろって残っていることや、全国で唯一本丸内の建造物がほぼ完全な形で残っていることなどから、城郭史上きわめて貴重な遺構です。これらを含め15の建造物が国の重要文化財の指定を受けています。 |
明治43年(1910年)9月24日、河東碧梧桐は高知城跡に上った。 |
次いで旧城跡に上った。今は市の公園になって種々の設備がしてある。高知の如き旧物破壊思想が瀰漫した中に、この天守閣の保留されたのはむしろ不思議の一つであるという。一時は塀も石垣も天守閣も、雨露の浸蝕に委して、真に荒涼たる感を懐かしめたという。 |
昭和6年(1931年)4月4日、高浜虚子は高知城内で俳句会。 |
四月四日。高知城内俳句会。 春の水樗も家も映りをり 春水を転た湛へてお濠かな |
近代日本の道を開いた自由民権運動の最高指導者として有名。天保8年(1837年)4月17日、高知城下中島町の上士の家に生まれ、旧姓は乾、無形と号した。討幕運動に参加、戊辰戦役の折に先祖の板垣姓を名乗り、武勲を立てた。 維新後、新政府の参議に列したがやがて下野、明治7年(1874年)1月、民選議院設立建白書を左院に提出したのち帰高。同年4月、高知に立志社を創立して自由民権論を唱えた。明治14年(1881年)10月、自由党総理に推され、翌春、東海道を遊説の途上、4月6日岐阜中教院で暴漢に刺された。血潮に染まりながら板垣の叫んだことばは、いつしか |
の名文句となり、怒濤の如く全国に伝承され自由を求めて闘う人々を大いに勇気づけた。 明治20年(1887年)5月、伯爵を授けられたが一代華族論を唱え、一代限りで拝辞した。以後、内務大臣に任ぜられること2回、晩年は政界を隠退し、社会改良運動に専念した。相撲や居合道などの発展のためにも尽力したが、大正8年(1919年)7月16日、83歳で死去した。遺書に「一代華族論」・「武士道」・「神と人道」・「獨論7年」・「立国の大本」等がある。 |
大正12年(1923年)12月5日、建立。本山白雲作。 昭和18年(1943年)9月2日、供出。後に再建。 |
山内一豊の妻は、弘治3年(1557年)生まれ。通称千代といわれているが、これを裏づけるたしかな資料はない。出身についても通説では近江国(滋賀県)浅井氏の家臣若宮友興の娘とされてるが、近年では美濃国(岐阜県)八幡城主遠藤氏の娘ともいわれている。 幼い頃父を失い、17、18歳の頃一豊と結婚、貧しい暮らしの中で家を守り、戦いに明け暮れる一豊の出世を助けた逸話が残されている。中でも結婚の時、持参した10両の金を出して一豊に名馬を買わせ、それが織田信長の目にとまって出世の糸口になった逸話は広く知られている。 また、関ヶ原の戦いの前に、笠の緒に縒り込めた手紙で関東にいる一豊に大阪方の情報を知らせ、その進路を決定づけさせたことが一豊の土佐一国領主への道を開くことになった。手芸や文筆にもすぐれ、賢夫人として知られてる。元和3年(1617年)12月4日に京都で没。61歳。法号見性院。 この銅像は、昭和40年(1965年)2月26日に除幕された。 |
昭和14年(1939年)11月1日、種田山頭火は高知城観覧。 |
十一月十一日 晴、滞在。 七時――十二時、市内行乞(米四合、銭五十五銭)。 人さまざま世さまざま、同室四人、みなへんろさん、私もその一人。 身心のむなしさを感じる。 高知城観覧、その下でお弁当をひらく、虱をとる、帰宿して一杯、そして一浴、鬚を剃った、ぽかぽか――ぼうぼう。――
『四国遍路日記』 |
昭和24年(1949年)10月19日、高浜虚子は星野立子と共に高知市議事堂で「竜巻」二百号記念俳句大会。 |
十月十九日。(十月十八日出発。四国九州の旅に上る。)「龍巻」 二百号記念俳句大会、高知市会議事堂。筆山荘泊り。 海底に珊瑚花咲く鯊を釣る 十月の雲の峰たつ土佐に来し |
自動車にのせられて高知城へ。丁度お堀の蓮を刈つて ゐる処であつた。穂芒が美しい。 同行した人数は大勢であつたが宿が夫々別で私共は筆 山荘といふ宿にきめられる。 旅先に別れて逢ひて秋の風
星野立子・未刊句日記 |
昭和38年(1963)10月、水原秋桜子は高知城を訪れている。 |
高知城内の「花壇」に泊る 天守閣芭蕉にそびゆ十三夜 芭蕉葉の影かさね立つ後の月
『晩華』 |