国道195号(土佐中街道)から県道220号上尾峠久万線に入り、物部川を渡って県道217号久保大宮線へ。 |
昭和6年(1931年)5月、吉井勇は初めて土佐に遊ぶ。 昭和8年(1933年)、伊予を経て土佐に入り、韮生の山峽猪野野の里に帯留。 |
はたた神いきどほろしく鳴り出でぬいまこそ酌まめ酒麻呂の酒 いきどほろしき心をもちて酒麻呂のつくれる酒は飲むべかりけり ここはしも猪野野山里訪ひ來とも伊野部酒麻呂妹な欲りそね かにかくに友はうれしも別れ酒伊野部酒麻呂酌めともて來ぬ
『人間経』 |
昭和9年(1934年)4月、吉井勇は再び韮生の山峽猪野野の里を訪れる。 |
大土佐の韮生山峡いや深くわれの庵は置くべかりけり あしびきの山こもり居のわがためにうま酒もて來伊野部酒麻呂 夜ごとに酒麻呂の酒酌みながら百足の宿に安居(あんご)すわれは
『人間経』 |
寂しけれは御在所山の山櫻 |
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咲く日もいとゝ待たれぬるかな |
「昭和九年十一月、土佐の國韮生の山峽猪野野の里に、ひとつの庵廬を作りて溪鬼莊と名づけぬ。阿蘭若ならぬこの庵に、何を思ふとてか籠りゐにけむ。」とある。 |
昭和11年(1936年)4月10日、吉井勇は渓鬼荘発、琴平着。金刀比羅宮に参詣する。 |
昭和十一年四月十日、朝八時頃渓鬼荘発。猪野々口より土佐山田まで省営バス、それより汽車にて午後一時頃琴平着。山西岩男君に迎へられて金刀比羅宮に参詣す。石段の高きことには閉口したれども、本殿にて森寛斎の絵を見たるは、思ひがけざる眼福なりき。 |
昭和16年(1941年)11月、吉井勇は伊野部恒吉の訃報を得て、直ちに海路土佐へ。渓鬼荘を売却。 昭和32年(1957年)5月27日、吉井勇は渓鬼荘跡へ。28日、在所村・在所観光協会は猪野沢温泉に歌碑を建立。 |
わが廬(いほり)すでに人手にわたり居り藁葺屋根のあはれなるかも 太宰府の飛梅の種子(たね)もらひ來しことさへいまはそこはかとなき 翌廿八日は御前十時より物部川を望む斷岸の 上に、新たに建てられたる予が歌碑の除幕式 あり、往年さすらひの身をこの地に寄せたる 時、今日このことあるを誰か豫期せむ おのずから眼裏(まなうら)熱しわが歌の文字を刻めるこの石みれば 山鶯の鳴くこゑもまた録音すこの日何よりうれしきはこれ 斷岸のうへに建ちたるわが歌碑に風吹くなゆめ雨降るなゆめ 片隅にいまや世に亡き庵つくり大工久さんの妻も泣きゐる いまも聞く世にあらがひて籠りゐし土佐の韮生(にらふ)の峽(かい)の水おと 命ながきことを願ひて今日よりはさらにしづけき老に入らまし 京に老ゆかの大土佐の山峡のわが草庵もすでに朽ちしか |
昭和45年(1970年)9月、山口誓子は高知を訪れ「渓鬼荘」を見ている。 |
土 佐 氷挽く鋸土佐の大魚の牙 透明の氷塊四つ部屋に伐る 月と吾が飛行機他に何も無し
『不動』 |
平成26年(2014年)11月21日、「渓鬼荘」は国の登録有形文化財になった。 |
伊野部恒吉氏の家の裏手にあった隠居所<4畳半と3畳>をもらい受け、猪野々に運ぶ。昭和9年(1934年)11月に竣工、その年の12月に完成。昭和12年(1937年)高知市へ転居するまで、ここを住まいの本拠地とした。 入るとすぐ6畳の「炉酒の間」、奥に4畳半の書斎兼寝室「紫山の間」。 移築前の敷地は154平方メートル、建坪は54平方メートル。 建築は猪野々大工猪野久吉氏。 平成18年(2006年)3月に猪野沢温泉から記念館横に移築。 勇の愛した炉、自在鍵、茶釜を展示。 勇は歌碑除幕式(昭和32年(1957年)5月)の時、亡き大工久吉を偲び ○片隅にいまや世に亡き庵つくり大工久さんの妻も泣きゐる と詠んでいる。 |