江戸時代後期の国学者。号は古義軒・山斎など。身分は下士から晩年白札となる。 この地(高知市福井)に生まれ、分一役(収税吏)として安芸郡や幡多郡に2か年あまり駐在したほかは、この地にあって生涯を送った。16〜17歳頃から宮地仲枝に国学・和歌を学び、貧しいなかで妻きく(武市瑞山の叔母)の内助を得て万葉集の研究にうちこみ、大著『万葉集古義』を著わした。『南京遺響』『土佐日記地理弁』のほか家集『山斎集』などがある。 その門下に武市瑞山・吉村虎太郎・佐々木高行らがいる。 |
南の海この里にして萬葉の道の八十隈ひらき ましつる 畏きや明治の帝きこしめてて櫻木にしも匂は しましき 百年の今日をしのひて五百年の千年の後の人 も仰かむ |
鹿持雅澄先生の百年祭にあたり先生の遺風を仰ぐ者の相謀り墓前に式典をあげ併せて邸址に碑を建て文學博士日本學士院会員日本藝術院会員佐佐木信綱氏の歌を録し記念とする。 |
わかき子の乞ひ泣くごとに 吾妹子がかきなでしくし 忘らえめやも |
ここに鹿持雅澄先生生誕二百年にあたりその遺徳を景仰して亡妻挽歌一首を刻し永く後世に伝えます 碑面の文字は万葉集古義稿本から集字いたしました ちなみに原文は次のとおりであります 若子之乞泣毎似吾妹子我掻撫四九四将忘八方 |